3・11から14年…耳に残る「逃げろ!」 ドラ1に刻まれた恐怖、目撃した「黒い水の塊」

オリックス・麦谷祐介【写真:小林靖】
オリックス・麦谷祐介【写真:小林靖】

オリックス・ドラフト1位の麦谷祐介…「3・11」、14年前の記憶

 東北地方を中心に2万人以上の死者・行方不明者が発生した東日本大震災から、今年3月11日で14年目を迎える。仙台市で被災したオリックスのドラフト1位、麦谷祐介外野手(富士大)は、2年後に日本一になり被災地に希望と感動を与えた楽天の選手たちに、自身の今後の活躍を重ねる。

 当時、小学2年生の麦谷には今も忘れられない時間と景色がある。「午後2時46分でした。学校で終わりの会をしている時にいきなり揺れがきました」。車で迎えに来てくれた母と帰った自宅は、大きな被害はなかったが壁にひびが入り、飼っていた金魚の水槽は落ちて割れていた。父や姉も自宅に帰り、しばらく家族でテレビの臨時ニュースを見ていたが、麦谷は何となく2階の自室に。そこで目にしたのは東の窓から遠くに見えた、黒い水の塊だった。

「津波がくるとテレビで言っていましたが、実感はなくて」。急いで階下の家族に知らせ、車で避難した。「どこに向かったのか、わかりません。ただ、道路は大渋滞でした」。最終的に避難した学校のグラウンドで車中泊をして寒さをしのいだ。

 自宅と海岸の距離は、津波被害を受けた仙台空港周辺と大きく変わらなかったが、高速道路の土台が防波堤の役目をして、津波に襲われることはなかった。幼稚園でお世話になった先生の母が亡くなったと知ったのは、ずっと後のことだ。

「津波は思い出しますし『逃げろ!』という声やいろんな人の悲鳴などは鮮明に覚えています」。恐怖でしかなかった地震だったが、貴重な体験もした。車中での避難生活のため体育館で寝ることはなかったが、炊き出しなど食事のお世話にはなった。「避難所でわかめ汁をもらって、クラッカーや水などを配っている人を見て、僕もこういう大人になりたいなと思いました。人が困っている時に率先して手を差し伸べる人になりたいなって……」。

 小学2年生から楽天アカデミーで野球を始めた麦谷。「見せましょう、野球の底力を」と復興支援のための慈善試合でスピーチした嶋基宏捕手の言葉を今も思い出す。「楽天は2年後に日本一になりました。僕も実際に現地で観ていたので、プロ野球選手がこうやっていてくれるんだ、とすごく感動しましたし、僕もこうなりたいと強く思いました」。

 プロ野球選手となって3か月。「そういうことができるって、プロ野球選手としての仕事でもあるわけじゃないですか。今、その立場になると、なおそういうことが大事なんだと感じます」。走攻守、3拍子揃った強打者として。人々を勇気づけ感動を与えることのできる選手を目指す。

(北野正樹 / Masaki Kitano)

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY