試合中に強制送還の屈辱 コーチに告げられ唖然…戸惑った“MVP左腕の扱い”

元中日・野口茂樹氏、落合政権下で屈辱の2軍落ち
中日は2004年、5年ぶりのセ・リーグ優勝を飾った。この年から“3冠、オレ流男”で中日OBでもある落合博満氏が指揮を執り、監督就任1年目で目標を成し遂げた。だが、前回優勝の1999年MVP左腕の野口茂樹氏には険しい戦いだった。過去の実績関係なしの落合野球においては結果がすべて。試合中に遠征先の広島から名古屋に強制送還という若手レベルの屈辱も味わわされた。「うまく切り替えられたら、もうちょっと良かったかもしれないですけどね」と唇を噛んだ。
2003年シーズン終盤に解任された山田久志監督に代わって、中日は2004年から落合監督体制になった。野口氏にとって落合氏は、中日入団時のドラゴンズの主砲であり、ライバル球団・巨人の主砲。プロ4年目の1996年8月31日の巨人戦(ナゴヤ球場)で左手小指骨折となる死球を与えたこともあったが、大打者監督の下で全力を出し切るつもりで取り組んだ。だが、4勝止まり。調子の波にうまく乗れなかった。
この年の開幕投手は中日にFA移籍後、3年間1軍登板がなかった川崎憲次郎投手。「誰だ、誰だってみんながなった時でしたね。僕、あの時、(投手コーチの鈴木)孝政さんに『誰が先発なんですか』って聞いたんですよ。そしたら『お前じゃないのか』って。まぁ、でも(川上)憲伸だろうなぁなんて思っていたら憲次郎さんだったんですよね」。いきなりこれで大いに話題になった後の開幕2戦目(4月3日、広島戦、ナゴヤドーム)が野口氏の出番だった。
中日打線が2回に一挙7点。大量援護を受け、7回途中を4失点で勝利投手になった。2002年は左肘痛に苦しんだ野口氏だが、2003年は9勝をマークして規定投球回にも到達。状態も少しずつ戻ってきていた。4月は4試合に先発して2勝1敗、防御率2.83。まずまずのスタートだった。しかし、5月3日のヤクルト戦(神宮)で1回2/3を8失点KOされると先発ローテから外され、リリーフに回った。
5月29日の阪神戦(ナゴヤドーム)で先発に復帰し好投したが、6月5日の広島戦(ナゴヤドーム)で2回1/3を4失点で敗戦投手となって2軍落ち。「そういう投手になったということです、僕が……。結果がすべて。駄目だったら落ちる。過去の実績はフラットになった状態。そう考えたらしょうがないんです。そういうことでチームも強くなっていったんじゃないかと思いますし……」。野口氏はそう振り返ったが、悔しかったはずだ。
2軍では指示通りに徹底的に走り込んだ。「(レフトポールからライトポールまで走る)PP100本、100メートル100本とか、1日100本というメニューを3日間やりました。若手に戻りましたよ。ホント、あの時はそういうこともやったなぁ……。まぁ、それもしゃあないです。やるしかなかったんでね」。もちろん、このままでは終われない気持ちだった。1軍に戻り、先発した6月20日の横浜戦(ナゴヤドーム)では被安打4、奪三振11で完封勝利(3勝目)を挙げた。
だが、もはやこれまでのシーズンとは感覚が違っていたようだ。「駄目でも次のチャンスで取り戻せばいいと思っていたのが、勝てないと次がなくなるのではと考え、ピッチングの余裕も、ゆとりもなくなっていった。まぁ、そこで自分を取り戻して、うまく切り替えられたら、もうちょっとよかったかもしれないですけどね」。主力投手として1試合トータル、1シーズントータルで見てくれた星野監督時代とは何もかもが違った。そこにも戸惑ってしまったのかもしれない。
プロ最短の1/3回KOで2軍落ち…試合中に名古屋へ強制送還
6月27日の阪神戦(ナゴヤドーム)、6回無失点で4勝目を挙げたのが、この年の野口氏のラスト勝利となった。7月4日の横浜戦(横浜)は4回1/3を2失点。7月18日の阪神戦(甲子園)は6回0/3を2失点で5敗目。7月25日の広島戦(ナゴヤドーム)は3回0/3を5失点で6敗目。7月31日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)は5回2/3を2失点。7月の4試合でコテンパンに打たれたのは25日の試合だけだったが、勝ち星をつかめない悪い流れから抜け出せなかった。
そして衝撃的だったのは次の登板だ。8月7日の広島戦(広島)、野口氏は打者6人に3本塁打を含む5安打5失点。プロ入り最短の1/3回でKOされ、2軍落ちが決まり、試合中に名古屋へ強制送還となった。「(投手コーチの)森(繁和)さんに言われたと思う。えっ、とはなったと思いますが、シャワーを浴びて、帰りました。デーゲームだったんでね」。野口氏は多くを語らないが、KO劇&2軍落ち以上に屈辱的な出来事だったに違いない。
当時、野口氏は30歳。セ・リーグMVP(1999年)、最優秀防御率2回(1998年、2001年)、最多奪三振(2001年)などタイトルも獲得してきた実績者であり、功労者が、若手並みの扱いで見せしめのように試合中に帰らされた。1/3回KOは無残だったし、確かにもう一度やり直さなければいけないだろうが、中日でいえば、星野仙一氏や小松辰雄氏らのレベルの投手が30歳の時に不調で強制送還されたようなものだから、かなりのインパクトがあったといえる。
「それに関して、周りにもいろいろ言ってくれる人がいましたけど、結局はそれも自分が出した結果ですからね」と野口氏はいう。だが、精神的ダメージは隠せなかった。「ピッチングに遊びがなくなり全部100で投げなきゃいけなくなった。ここまでは打たれても大丈夫だなと思って投げるのと、ここで打たれたら駄目だってなるのでは、やっぱり……。ちょっと落ちつつある時代で、打たせてとるピッチングをしている時にそうなったのはきつかったですね……」。
野口氏は8月21日の横浜戦(横浜)で1軍に復帰し、先発したが、3回2/3を7失点KOされ、2軍にUターン。この年の1軍登板はそこで終わった。落合中日は優勝したが、祝勝会にも出ていない。西武と対戦し、3勝4敗で敗退した日本シリーズも出番はなかった。「最後の方はいなかったんですから、それはしょうがないです」。17登板、4勝8敗、防御率5.65だったプロ12年目。オフにはトレードの噂も飛びかった。
それこそ、1996年に投手・野口が打者・落合に与えた死球が”冷遇”に影響を与えた説までささやかれたが、野口氏が「それは関係ないでしょう」というように、常に冷静沈着な落合監督が、いくらなんでもそんな次元で動くはずもないだろう。ただ、落合体制になって野口氏が苦しい立場に追い込まれたのは事実。それは翌2005年にもつながっていった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)
