波長が合わない落合野球、元MVPが陥った苦境 “謝罪電話”で阪神断り…巨人選んだ理由

巨人時代の野口茂樹氏【写真提供:産経新聞社】
巨人時代の野口茂樹氏【写真提供:産経新聞社】

野口茂樹氏は落合体制になった2004年は4勝、2005年は3勝に終わった

 2005年オフ、中日・野口茂樹投手はFA権を行使して巨人に移籍した。中日が優勝した1999年には19勝を挙げてセ・リーグMVPに輝くなどエース格として活躍していたが、落合博満監督体制になってから2004年は4勝、2005年は3勝と精彩を欠いた。もう一度出直すために敢えて愛着あるドラゴンズから離れ、環境を変えることを決断したが、当初、気持ちを大きく揺さぶられたのは、その年の夏場に騒がれた“巨人・星野仙一監督説”だったという。

 落合中日2年目の2005年、野口氏は開幕2軍だった。前年(2004年)が4勝8敗、防御率5.65の不本意な成績に終わり、巻き返しを図ったが、うまくいかなかった。「キャンプは1軍でスタートしていたので、やっぱり、それくらいピッチングが崩れていたと思う」。状態は今ひとつで、約1か月遅れでシーズン初登板となった5月15日のソフトバンク戦(ナゴヤドーム)では3回を3失点で敗戦投手となり、また2軍行きとなった。

 どうにも落合野球に波長も合わなかったようだ。「先発型のトータル7回、8回投げて、完投までいって勝っていたらいいというのが、5回までで0で抑えてなければ代えられるような感じに変わったわけで、それへのシフトチェンジが難しかった。僕はできなかったです。尻上がりのピッチャーがはじめにマックスに持って行くというのは非常に難しいんで……」。もっとも、当時はそういうこともよくわかっていなかったそうだ。

「1点、2点いいやって捨てができないので、取られた時に取り戻そうとしたら、今度は力んで大量失点という悪循環になっていたんですが、そういうのは野球を離れて解説とかしていて、やっとわかる。やっている時はなかなか難しいですよ」。現在、野口氏は株式会社カミヤ電機(愛知県西尾市)の営業担当として働きながら、DAZNなどで野球解説業も行っており「今、思えばですよ」と苦笑しながら話した。

「結局、ボールを(ストレートの球速が)149の時の自分に戻さないと、5回、6回まで最少失点で抑えるのは難しくなる。僕は145で行きたかったけど、それではOKにはならない。のらりくらりができませんからね。となると、やっぱり自分の年齢と体とかのバランス、投げるフォームとかがずれていて難しかったのかなぁ。それでやらないといけないと思って、立て直そうとするけど、違う方向に行っていたなと思いますけどね」

 2005年は1軍復帰の6月9日の楽天戦(フルスタ宮城)に、3安打完封勝利でシーズン初勝利をマーク。続けて6月15日のオリックス戦(ナゴヤドーム)でも8回無失点で2勝目を挙げたが、そこから3連敗と波には乗れなかった。8回2安打1失点で3勝目をつかんだ7月31日の巨人戦(東京ドーム)では、7回2死までノーヒットに抑える見事な投球だったが、それ以降、白星を手にできなかった。

2005年オフに行使したFA権…3球団から声がかかり巨人を選択

「まぁ、ハマるか、ハマらないかです。ハマる形にまで持っていったら、強かったんですけど、ハマらなかった時がね……」。9月4日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)では、2回2/3を3失点。1-0の3回に岩村明憲内野手に逆転3ランを打たれ6敗目を喫して、2軍に降格。そのままシーズンを終えた。2005年の成績は13登板、3勝6敗、防御率4.00だった

 どうしても自身のリズムを取り戻せないもどかしさがあったからだろう。「自分が尻すぼみになってきているから、もう環境を変えるしかないかなぁって思う部分がありました。FAのチャンスがあったので、それもひとつの選択かなとね。獲ってくれるところがあるかわからないけど、それはシーズン中から、ちょっと頭の中にありました」。1軍で結果を出し切れずにいた8月頃から悩みはじめていたという。

 くしくも、ちょうどその頃、何とも気になる情報が球界では飛び交っていた。それが、野口氏にとって恩師である星野仙一氏の次期巨人監督就任説だ。阪神球団のオーナー付シニアディレクター(SD)だった星野氏に巨人が接触しているとまことしやかにささやかれていた。「また星野監督の下でやれば、また何かあるかもしれない。星野さんが監督ならどこの球団でも行きたいと思いました」と野口氏は話す。そう夢見て、なおさら移籍を考えるようになったようだ。

 9月になって星野氏が阪神残留を表明して、その“騒動”は終わった。野口氏の夢は、まさに何も起きることなく夢のままで終わったが「自分のためにも環境を変えた方がいいのでは」との考えは消えなかった。「やっぱり結果が出ていなかったんでね。登板数も減っていましたし、環境が変わればまたリセットになるかもしれないと思って……」。もちろん、ここまで育ててもらったドラゴンズに愛着はあった。中日に残りたいという気持ちもあったなかで、悩んだ末にFA権行使を決断した。

 最初にアプローチがあったのが、原辰徳氏が監督に復帰した巨人だった。さらに星野SDがいる阪神や、楽天からも声がかかった。「星野さんが監督なら阪神に行ったと思います。でも、それはあり得ない話ですからね。一番最初に巨人から話があったので、巨人に行くことにしました」。星野氏には電話で断ったそうだ。「電話したうえで、星野さんの家に謝りに行こうと思ったんですけど『そこまでしなくていい』と言われて、その電話で終わったんです」。

 中日にとって宿命のライバル球団でもある巨人のユニホームを着ることになんて、ほんの数年前まで野口氏は思ってもいなかったはずだ。何としてももう一度、立て直す。そう決意しての移籍だった。しかし、新天地でも試練の日々が待っていた。一番やっかいな敵である怪我が、左腕の前に立ちはだかった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY