巨人へFA移籍も「地獄だった」 痛み止め多用も“壊れた体”…待っていた大減俸

野口茂樹氏は巨人移籍1年目に左肘違和感で離脱…1登板に終わった
元中日投手の野口茂樹氏はプロ14年目の2006年、新天地・巨人で巻き返しを狙った。1999年に19勝を挙げ、中日優勝に大貢献したセ・リーグMVP左腕も2004年4勝、2005年3勝と苦しいシーズンが続き、環境を変えてやり直そうとFA移籍した。だが、調子はもうひとつ。5月に1軍昇格して先発したが、左肘の違和感を訴えて離脱し、移籍1年目は終わった。移籍2年目は中継ぎながら結果を出していたが、またも5月に……。地獄の日々が続いた。
プロ入りして13年間暮らした名古屋を離れ、東京での新生活。野口氏はプロ9年目まで合宿所生活を続け、10年目からは名古屋駅前のホテル暮らしだったが、巨人移籍とともに初めてマンションでの一人暮らしをはじめた。「品川駅の近く。はじめはタクシーでよみうりランドに行っていたんですけど、往復で3万ちょっとかかったので、途中からは電車で通うようになったんですけどね」。
慣れぬ環境は私生活だけではなかった。「(巨人キャンプ地の)宮崎は、(中日キャンプ地の)沖縄に比べると寒かったんで、投げ込みがけっこうできなかったんですよ。それにブルペンもやっぱりちょっと違うんで、なんかしっくりこないままキャンプを終えた感じでした」。オープン戦は3試合に先発して2勝0敗だったが、開幕は2軍スタートになった。「たぶんボールが走っていなかったと思うんですよねぇ。自分のなかでもどこが正解か見えないままでしたから」。
巨人での1軍初登板は5月14日の西武戦(インボイス)だった。「その前にファームの横浜戦に、風がビュービューのなかで投げたんです。調子がよくなくてボールは走ってなかったんですが、何か知らんけど7回をゼロで抑えちゃって、(1軍に)上がれって言われたんです」。そんな状態での1軍マウンドは先発して3回5失点。その後、左肘の違和感を訴えて5月17日に登録抹消となった。
「この肘の状態のまま(1軍に)いても、やばいなって思って、自分で(違和感を)言いました。(状態が)よかったら全然投げるんですけど、これではチームに迷惑もかけると思ったのでね」。移籍1年目は、そのわずか1登板、0勝0敗、防御率9.00で終わった。「いろんな部分で初すぎて、全然駄目でした。わからないままにね」。FA移籍して巻き返してみせるという気合も空回り。とにかくうまくいかなかった。

巨人2年目は救援に配転…古巣・中日から移籍後初白星
移籍2年目の2007年は先発ではなく、中継ぎに回ることになった。1年目は背番号31だったが、46に変わった。「31は2つくらい番号を提示されて、選びましたけど、46は希望したわけではないです。1年目がよくなかったからじゃないですかねぇ。(中日時代の背番号)47の1個前だし、空いたからかなぁ」と話したが、もう一度、心機一転の気持ちだった。
オープン戦は2試合に2番手で投げて2回無失点と4回無失点。前年より内容も悪くなかったという。「肘の状態もよかったし、中継ぎでスタートダッシュはよかったんですけどね」。開幕6戦目の4月5日の古巣・中日戦(東京ドーム)でシーズン初登板。3-5の9回に4番手でマウンドに上がり、打者3人を無安打に封じた。その後も中継ぎで好投を続けた。4月21日の阪神戦(甲子園)では2番手で投げ、1回2/3を1失点で初ホールドをマークした。
試合展開に関係なく登板する立場だったが、黙々と投げて結果を出した。5月1日の中日戦は思い出いっぱいのナゴヤドームで登板。3-5の6回裏にマウンドに上がり、1イニングを無安打無失点。7回に巨人が逆転し、移籍後初勝利を手に入れた。「お客さんからもブーイングはなかったし、やっぱり投げやすい球場だなと思いながら投げていました」。もちろん、この時はこれが現役ラスト勝利になるとは思うはずもなかったが……。
暗転したのは次の登板。5月3日、同じくナゴヤドームでの中日戦だった。1-1の6回途中に先発・木佐貫洋投手をリリーフし、その回をゼロに抑え、7回も続投。そこで「また肘がぶっ飛んだんですよ」。この回の野口氏は打者4人に1安打無失点。アウトはすべて三振で奪ったが「痛ぇってと思いながら投げていました」という。「ノリさん(中村紀洋内野手)から三振をとったのも、たぶん真っ直ぐを投げたのがチェンジアップになった。それで空振りしてくれたんです」。
まさに気力だけで点を許さなかったわけだが「さすがにこれはやばいと思いました。コーチにもう1イニング行くかと言われたんですが、それはちょっと行けませんって言っちゃいました」。ただし、肘の異常は隠した。そのまま1軍で投げ続けた。「FAで来て2年目。前の年も状態が悪かったし、もうここは痛いとは言えないなと思った。でもそこからは地獄だった。痛み止めを飲んで投げて、毎週日曜日には水を抜いて……。ホント脂汗たらしながら投げました」。
左肘痛に耐え巨人2年目…ポストシーズンは出番なし、オフに大減俸
治療していたのだから故障を知っている人はいたが、野口氏の気持ちを考えて首脳陣には言わないでいてくれたという。とはいえ、中6日などで投げる先発ではなく、毎試合登板があるかもしれない中継ぎで、この状況は超ハードだった。それでも必死になって投げた。左肘痛後、6月14日に登録抹消されるまで11試合に中継ぎで登板し、失点したのは2試合だけだった。
しかも、2軍でもその状態のまま調整し、7月12日に1軍復帰した。「けっこう頑張ったんですけどね……」。何とか踏ん張っていたが、8月8日の阪神戦(東京ドーム)で1/3回を6失点。8月11日の中日戦(ナゴヤドーム)では0/3回を1失点で敗戦投手となり、打者2人に投げ、1三振1死球だった8月14日の広島戦(広島)を最後に再び2軍に落ちた。それでも休むことなく、調整に励んだが、今度は1軍から声がかかることはなかった。
2007年の巨人はレギュラーシーズン優勝を果たしたが、クライマックスシリーズ第2ステージで中日に敗れ、日本シリーズに進出できなかった。そんなポストシーズンも野口氏の出番はなかった。この年の成績は31登板、1勝1敗、4ホールド、防御率4.30。年俸は1億円から75%減の2500万円(金額はいずれも推定)になった。
左肘の痛みは翌2008年も治まることはなかった。「次の年(2008年)のキャンプはキャッチボールから地獄でした。もうその段階で痛いんですから。大変だったです。でもブルペンでは投げたんですよ。痛くないところを探しながらね」。FA移籍で期待されながら、思うような仕事ができなかった歯がゆさ。野口氏は当時を思い出しながら表情を曇らせた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)
