元阪神ドラ1を変えた挫折 同級生が15歳でプロ入り…屈辱の手伝い「涙がボロボロ」

中学時代の上田二朗氏に立ちはだかった強烈ライバル…15歳で大洋入団
下手投げ投手として阪神、南海で通算92勝を挙げた上田二朗氏(野球評論家)は和歌山・田辺市立明洋中学から本格的に野球をはじめた。同級生に15歳でプロ野球・大洋入りする強烈な競争相手がいた。「身長以外は負けていないと思っていた」というが、周囲の評価には“差”があった。ライバルが大洋のテストを受ける際には中学の監督指令で手伝うことになり、あまりの悔しさに涙が止まらなかったという。
1960年、田辺第三小を卒業し、明洋中に入学した上田氏は軟式野球部に入部。「私たちの頃は1学年16組くらいありました。1組が55人かな。野球部にも何十人も入りましたね」。そこで出会ったのが、後に15歳で大洋入りする室井勝投手だった。「彼は田辺市の芳養(はや)小の出身で中学1年の時から試合に出ていましたね。私は2年になってからかな。ピッチャーと野手、ファーストとか外野とかを兼ねていた。室井もそうでしたけどね」。
仲がいい同級生であり、ライバルだった。「中学から本格的に野球をやりはじめましたけど、室井という目標であり、絶対負けたくない対象ができたというのが大きかったと思います」。まさに切磋琢磨して成長していったが、周囲の評価は上田氏が“2番手”だったという。「室井は身長もすでに177センチくらいあった。私はその頃165くらいだったかな。やっぱり誰が見ても室井の方が見栄えもいいし、かっこいいし、ピッチャーらしいピッチャーでしたからね」。
その上でこう続けた。「室井は今の阪神でいえば才木(浩人投手)みたいな感じで上からピシッと投げていた。私はただ単に力一杯投げているだけ。必然的に評価としたら室井がエースですよ。ただ、私の心の中ではそれを認めていなかった。身長以外は負けてない。投げる方でも、打つ方でも負けてないって思っていた。実際負けていなかったんですよ、(球の)スピードもバッティングで遠くへ飛ばすのも、結果もね。でも私の方がやはり印象が薄かったんでしょうね」。
入団テストの手伝いを命じられ募った悔しさ「涙がボロボロ」
そんななか、プロ野球のスカウトがまだ中学生の室井獲得に動き出した。「3年の夏が終わってから、元巨人で当時は大洋のスカウトをされていた田辺市出身の岩本堯さんが、私らの野球を見に来て、室井をテストしたいという話になったんです」。後日、テストは田辺高のグラウンドで行われることになり、明洋中の野球部員数人が手伝うことになったという。「明洋中の榎本監督に『手伝うものがおらんから、行ってこい』って言われてね」。
行く前はプロ野球のテストに興味があったそうだが、いざ手伝いに行くと違う気持ちが高ぶった。「田辺高のグラウンドで2時間ほどの練習。それを手伝ったんですけど、涙がボロボロ出てくるわけですよ。悔しくて、悔しくて。自分も室井に負けていないはずなのに、自分を見に来てくれているんじゃなくて手伝いをしている悔しさ。岩本さんは私なんて眼中にないわけです。室井ばかりを見ているわけです。室井を見に来ているのだから、そりゃあそうなんですけどね」。
室井はテストに合格して大洋入団が決まった。「(中学卒業後は)夜間学校に行きながらプロに入る。いわゆる青田買いですよね。才能のある選手を早めに獲得してしまう。当時はそういうのが流行っていたみたいです。室井が大洋に入るとなったら、地域のみんなも、すごいなぁってなりましたね」と上田氏は話したが、それが発奮材料にもなったという。「プロに行った室井に負けられないと気持ちが、その後もずっとありましたからね」。
上田氏はこんなことも明かした。「私が東海大学の時、(明洋中時代の監督だった)榎本先生に聞いたんですよ。『あの時、何で(室井のテストの)手伝いに行けと言ったんですか』って。そしたら『お前と室井はライバルだったと思う。上田が足りなかったのは身長だけだったよな。室井は中学からプロに行くって決めたけど、上田の場合は高校に行ってもっと上にいけばいい。そういう目標を持ったらいいんじゃないかと思った』って」。
敢えてライバルが躍動する姿を目に焼き付かせたということ。その通り、上田氏は涙を流しながらも奮い立ったのだから、中学時代の恩師の思いも自然と伝わっていたということだろう。室井投手は大洋で活躍できなかったが、南部高、東海大を経て1969年ドラフト1位で阪神に入団した上田氏にとって、その存在は特別なものだった。「彼と出会ってなければ、私の野球人生はきっと違っていたでしょうね」。当時を思い出しながら、そう口にした。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)
