誰もが予想できぬ“最後の勝利” 復活信じた女性ファンも…ボロボロの元ドラ1「今だったら」

元近鉄・太田氏が苦しんだ右肩痛との戦い
甲子園で人気を集めた元近鉄ドラフト1位右腕、太田幸司氏(野球評論家)のプロ野球人生は、プロ10年目の1979年10月に右肩痛を発症させてから暗転した。11年目の1980年は14登板(3先発)で0勝4敗、防御率10.66と不本意な成績。それが苦悩の始まりだった。「肩以外は大丈夫だったんですけどね……」。恩師の近鉄・西本幸雄監督が勇退した1981年はわずか1登板(1先発)の0勝1敗に終わった。
1979年10月9日の南海戦(大阪)で5回無失点投球。その試合でマークした通算58勝目となるシーズン7勝目が、太田氏の現役ラスト勝利になるとは、当時は誰も予想できなかったはずだ。その白星後、阪急とのプレーオフに向けての練習スタートの朝に右肩痛を発症。無念のリタイアにはなったものの、治療すれば、また元に戻ると女性ファンをはじめ、誰もが信じていたことだろう。だが、現実は厳しすぎた。
「治療は鍼を打ったり、電気を当てたりとか……。今だったら、機械で見るとかでしょうけど、そういう時代じゃなかったしね。『鍼とかをやっていれば、年を越したら大丈夫だろう、次のキャンプはOK』なんて言われたし、僕もそういうつもりでいたんですけどね」。1980年になって、再び投げられるようにはなった。だが、完全に元には戻らなかった。「自分では同じような球を投げているつもりでも、やっぱり……」。
青森・三沢高時代からの武器の一つでもあった打者の手元でホップする快速球が出る頻度も低くなった。「良かったり、悪かったり。良いのが続かなかった。(右肩痛の影響で)ボールを放す瞬間にピリッとくるようになって、どうしてもちょっと……。(そこをかばう)変な癖もつきはじめた。だから手元でピュっといってなかったんでしょうね」と振り返る。「投げてもカーンと打たれるというのはそういうことだったと思います」。
プロ11年目の1980年は1、2軍を往復しながら0勝4敗。「ちょっと投げたら、またちょっと軽い痛みが出たりとかの繰り返しでしたね」。当時のパ・リーグは前期、後期の2シーズン制。その年の近鉄は後期に優勝したが、太田氏は全く貢献できず「寂しい話でしたわ、これも……」と悔しそうに話す。3勝0敗で1979年に続くリーグ連覇を成し遂げたロッテとのプレーオフも登板なしだった。

日本シリーズ後の“消化ゲーム”に登板「そのくらいの立場に下がっていた」
そんな中、2年連続3勝4敗で広島に敗れた日本シリーズでは第6戦(11月1日、広島)に出番があった。0-5の5回から3番手で投げて2回1失点。いきなり先頭の山本浩二外野手に右越え本塁打を浴びたが、動じることなく、許した安打はその1本だけだった。その時点でできることを最大限にやり尽くし「1試合でも日本シリーズで放らせてもらったのは、いい思い出です」と太田氏は話したが、全盛期ならもっと違う登板にもなっていたことだろう。
その年のシーズン最終戦は日本シリーズ後の11月7日の南海戦(大阪)。まさしく“消化ゲーム”に太田氏が先発した。結果は5回0/3、4失点で4敗目。「普通、ローテーションで投げていたら、そんなところでは絶対投げない。もう、そのくらいの立場に下がっていたわけですよ。まぁ、日本シリーズでも投げたし、最後に来シーズンに向けて力を測る意味でも(首脳陣は)投げさせたんじゃないかなぁ」。
しかし、翌1981年も好転することなく、逆に右肩の状態は悪くなった。シーズンのほとんどを2軍で過ごし、1軍登板はわずか1試合。シーズン終盤の9月29日の西武戦(日生)に先発し、2回4失点で敗戦投手になっただけだった。「(右肩の)痛みとの戦いでした。この年は下(2軍)でもそんなに(試合で)投げていないです」と唇を噛んだ。この年限りで恩師の西本監督が勇退。ラストイヤーにまともに働けなかった無念さも重なった。
右肩以外に大きな問題はなかったという。「肘には、ずっと前からネズミ(遊離軟骨)がちょろちょろ、ちょろちょろしていたんです。まぁ、今だったらクリーニング手術をするところでしょうけど、それは長い付き合いで、ごまかしながらでも放れたんですよ。でも肩(痛)は……。ファームで練習しても体力はあるんだけど、ブルペンで投げたら肩がしっくりこない。そんな感じでしたね」。白星が遠いものになった。何とも、もどかしい日々だった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)