拓大紅陵で33年間指揮を執った小枝守氏の孫
卒業を前にどうしても会っておきたい一人の高校球児がいた。2025年の選抜高校野球大会に創部101年で初出場を成し遂げた千葉黎明高校の背番号15の選手。名前は今井心太郎。レギュラーとして出場し続けた選手ではない。その名を聞いても、多くの人はすぐには気づかない。拓大紅陵や日大三で37年間指揮を執った名将・小枝守氏の孫であることを……。
1月末、寒空の下のグラウンドに到着すると制服姿の心太郎が筆者の到着を待っていた。高校野球に別れを告げ、4月からは大学に進学。硬式野球部のマネジャーになるという。精悍な顔立ちで、振る舞いも礼儀正しい。千葉黎明・中野大地監督も「非の打ちどころがない。模範となる生徒です」と絶賛するほどの人間性。礼儀を重んじてきた小枝守監督の孫であることに違和感はない。
小枝監督の孫(長女の子)である心太郎が小学5年生のとき、祖父は他界した。最後は肝細胞がんと戦った。日大三で指揮を執った4年と合わせて37年間、高校野球の監督を務め、侍ジャパン高校日本代表監督も歴任した。これから、野球界のために汗を流そうとした矢先の出来事だった。筆者は小枝監督が自宅で当時10歳の心太郎に愛情を注いでいた姿を見ていた。
技術指導を受けた記憶はほとんどない。残っているのは、自宅から徒歩1分の公園でのキャッチボール。いい球を投げると「ナイスボール」と言ってくれた。ボールが逸れると「自分で取りに行け」と笑った。バドミントンをした日もあった。当時は気づかないが、ラケットを使う腕の動きは野球に生かされることを監督は知っていたのかもしれない。
正月にはお年玉をくれる。テレビや球場でプロ野球も一緒に見に行った。「僕にとっては、普通のおじいちゃんです」。高校野球界で名将と呼ばれた人物と、心太郎の記憶にいる人物は、うまく重ならない時期もあった。
祖父がどんな監督だったかを知ったのは、後になってから。書籍や周囲の話を通じて少しずつ存在の大きさを理解していった。祖父の著書も読んだ。小学5年生の心太郎は自分のお小遣いを貯めて、書店で買った。ただ、そこに書かれた名言が並ぶ言葉の意味が腑に落ちるのは、高校生になってからだったという。
祖母・弥生さんへの思い
甲子園出場は夢のまた夢だった。地元の公立中学校から、創部101年で一度も甲子園出場はない学校へ進学した。他の強豪校で戦う選手とルートは異なった。千葉黎明の中野大地監督は拓大紅陵時代に1年時の2002年夏と3年時の2004年春に甲子園出場。小枝監督の最後の甲子園を経験した副キャプテンでもあった。明治大学、日産自動車、JFE東日本を経て指導者となり、4年前、千葉黎明に着任。小枝守の孫が、小枝守と最後に甲子園に行った選手が指導するチームで野球をすることになったというのも偶然という言葉で片付けられない。
迎えた2024年。誰もが想像していなかった舞台をナインは手繰り寄せる。心太郎が最高学年になった秋季大会。千葉黎明は関東大会4強入りを果たし、創部初の甲子園出場、選抜出場の切符を手にした。
心太郎の主な役割は一塁ランナーコーチャー。普段の練習では早くグラウンドに来て準備をすることも多く、チームのために動き続けた。中野監督は言う。「率先してグラウンドに水を撒いたり、彼の姿を見て周りが動いた。それを見たチームメートが自分もやらなきゃと動き出して、だんだんチームとして絆が強くなっていった」と。
そして、甲子園では初戦に強豪・智弁和歌山と対戦。打撃の状態が良かった心太郎は代打で出場。空振り三振に倒れたが、祖父が何度も立った聖地に足を踏み入れ、万感の思いが込み上げた。
「きっと祖父が見ていたら、『これが実力だ』と言われたでしょうね……」
厳しい指摘を受けるだろうと想像すると、自然と笑みがこぼれた。ただ、心太郎には胸を張れることがある。祖母であり、小枝監督を支え続けた弥生さんに新しい野球の景色を見せることができたことである。
「祖父が亡くなってから、祖母はちょっと元気がなかったんです。今は元気なんですけどね。野球を見るとおじいちゃんのことを思い出してしまったからなのか、野球から遠ざかっていた気がします。でも、甲子園の入場行進のときに見にきてくれて、元気をもらったと言ってくれました。野球をやっていて、よかったなと思いました」
春夏連続出場を目指した昨夏は県の準々決勝で敗退し、高校野球を終えた。祖父の墓前に手を合わせ「見守っていてくれてありがとうございました」と感謝の思いを伝えたという。
名将の孫が、名将の教え子のチームで、創部初、それも100年の歴史を超えて甲子園出場を果たす――。話の輪郭があまりにもきれいに整いすぎていて、誰かが空から“大きな力”を働かせているような気がしてならなかった。その誰かは想像がすぐにつく。だが、心太郎や周囲の話を聞き終えたとき、そうではないと気づいた。心太郎が自分で考え、自分で動き、自分の手でもぎ取った甲子園だった。
人の心を動かすことができるのも野球の魅力。小枝監督が生前、伝えていたことが結びついた。「技で人は動かず、心が人を動かす」――。心太郎が起こしたのは奇跡ではなく、必然だったのかもしれない。
(楢崎豊 / Yutaka Narasaki)