2大会連続でWBC優勝を逃した米国代表、メディアは辛辣も…選手たちは結束力を強調
期待値の高い陣容を誇ったアメリカ打線は、短期決戦のトレンド(好調・不調)で上向きに動くことなく苦しんだ。決勝のベネズエラ戦に2-3で惜敗。2023年の前回から2大会連続でワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の頂点にまた一歩届かなかった。
今大会の参加20チーム中で、安打(59)、打点(40)、得点(44)では2位だったが、本塁打4位(10本)、打率6位(.250)と低調で、三振はワーストの58個を記録。昨季のタイトルホルダー3人――3度目のMVPを獲得したアーロン・ジャッジ(ヤンキース)、捕手新記録の60発を放ったカル・ローリー(マリナーズ)、そしてナ・リーグ本塁打王に輝いたカイル・シュワーバー(フィリーズ)に加え、過去2度のMVPに輝くブライス・ハーパー(フィリーズ)ら輝かしい実績を誇る打者が名を連ねた重量打線が、期待通りに機能することはなかった。
カナダを5-3で下したヒューストンでの準々決勝後、米メディアの論調は厳しさを増した。老舗スポーツ誌『Sports Illustrated』の電子版は、その戦いを振り返り「米国は必要最低限の勝利を挙げただけだ」と、スター選手をそろえた「ドリームチーム」が本来の力を発揮できていない現状を厳しく伝えた。また、中盤まで主導権を握っていたこの試合は、終盤で一打同点という冷や汗の展開となり「このスター軍団は準決勝まで楽に進めると思っていたのかもしれない。だが、そうはいかなかった」と皮肉を込めた。
手厳しい論調を展開する地元メディアに同調するファンも多く「看板倒れ」の烙印を押されたアメリカ代表チームだったが、マーク・デローサ監督と主将のジャッジが「全員を信じて戦い、内野ゴロでも1点をもぎ取る」という姿勢を明らかにすると、ジャッジと共に牽引役を担ったシュワーバーは「チームは一つになっている」と共同戦士たちの結束力を強調した。
「選手の選考前から招聘を考えていた」…ショーン・ケイシー打撃コーチの重要さ
周囲からの逆風にさらされたアメリカ代表チームには、陰のモチベーターがいた。
ショーン・ケイシー打撃コーチである。「選手の選考前からショーンの招聘を考えていた」と明かしたのは、マイケル・ヒルGMだった。どんなタイプの人間にも寄り添い、会話を楽しむことから付いたあだ名は「メイヤー(市長)」。生きることの意味を照らし出す経験談にユーモアを交えた話術は玄人はだし。言わば「米球界の噺家」である。今大会でチームの正遊撃手となったロイヤルズの若きスター、ボビー・ウィットJr.は「引き込まれる話あり、爆笑を誘う話ありで最高! 僕らの気持ちを常に和らげてくれる」とケイシー氏を絶賛する。
ここで、デローサ監督が「古典」と称したケイシー氏のオハコを紹介しよう。
リッチモンド大(バージニア州)で強打の一塁手として注目されたショーン・ケイシーは、1995年のドラフトでインディアンス(現ガーディアンズ)に指名され、1997年9月にメジャーデビューを果たす。その翌年の春だった。ケイシーは球団関係者を震撼させる一大事を起こしてしまう――。
キャンプも終盤となったある日、インディアンス一筋で「火の玉投手」の異名を持ち野球殿堂入りした快速球右腕ボブ・フェラー氏とのキャッチボールでそれは起きた。
当時80歳だった球団の至宝は、選手と同じユニホームを着て行う試合前のキャッチボールを日々の楽しみにしていた。うららかな春の午後、ケイシーがその相手に指名された。高齢を気遣って受けたボールを山なりで返したケイシーにベンチにいた選手が檄を飛ばした。「戦地から戻って来た偉大な方にその返球は失礼じゃないか。しっかりと投げろよ!」。2球目、敬意を込めた回転の速いボールがフェラー氏の胸を直撃してしまう。地面に崩れ落ちたフェラー氏は病院に運ばれた。
ケイシー氏はその修羅場を述懐した。
「あれはもうね、どうしていいかわからなかった。だって、あのボブ・フェラーですよ。第2次世界大戦で兵役に就いて3年半も野球から遠ざかってメジャーに復帰した投手。その生命力を思うと、そりゃ山なりのボールは失礼だなと、僕も思ったんです。でも、あんなことになってしまうとは……。ボブがその後に元気でいてくださったから僕は救われたんです。今じゃ、“ケイシーの殺人未遂事件”ってシャレにならないことを言うヤツもいるけどね、まったく(笑)。忘れずに言うと、僕の返球に注文を付けたのは、ダイヤモンドバックス監督のトーリ・ロブロです」
悪夢のキャッチボールから2日後、ケイシーはチームを去った。“失投”が原因と噂になったが、先発陣に故障者が出たインディアンスはレッズと交換トレードを画策し、その要員になった。激戦地から戻った半年後の1946年に26勝を挙げ、奪三振348個の当時の年間新記録を作った偉大な投手を病院送りにしてしまったケイシーに、新天地で落とし穴が待っていた。
移籍して数日後の打撃練習中に、チームメートの送球が目に当たり、眼窩骨骨折を負った。ユニホーム姿のまま担架で運び出され病院に直行。手術は4時間に及んだ。「かなりひどい状態でした」。復帰に懐疑的な医師の声を聞いた。しかし意に介さなかった。「まだ23歳でしたから、諦めるなんてことは一度も思わなかった」。シーズン途中でショーン・ケイシーは見事カムバックを果たした。
10年落ちのホンダ・アコード…妻から「いつ処分するの?」
朴訥で素直なケイシー氏にも「浅はかさ」を深く省思する思春期の一コマがあった。
控えだった高校1年の春、不満を抱えていたケイシーはあることを思い付いた。監督に出場の機会を求める嘆願を相談された父ジム・ケイシーは「お前が明らかに他の選手より優れているなら試合に出られるはずだ」と却下すると、近所にオープンしたバッティングセンターの使用コイン代を約束した。ただし、練習を一日でも怠ればこの約束は破棄されるという条件を付けた。14歳の少年はチームの誰よりも打ち込み、レギュラーの座を実力でつかみ取った。
傲慢な要求を一刀両断にするのではなく、物事には相当な対価があることを父は教えた。
「希望は努力の積み重ねで叶うものだと教えてくれたのはオヤジでした。化学製品の営業マンでしたから、バッティングセンター代は決して小さいものではなかったはずです。言葉じゃない導きは自分の子どもの教育法の一つになっています。86歳になったオヤジには深く感謝しています」
野球の名門大学からの誘いはなかったが、進学したリッチモンド大でも全体練習後に黙々とケージで打ち込んだ。大学3年のシーズンでは打率.461を記録しNCAA(全米大学体育協会)に属する全チームのトップになった。毎晩ケージの横で流していたパール・ジャムの『Ten』とAC/DCの『Back in Black』は今も愛聴するアルバムである。
レッズ時代にショーン・ケイシーと初めて接した日のことを鮮明に覚えている。その時に聞いた人柄がにじみ出る話はずっと私の記憶に残っている。
マーリンズがマイアミに移転する前に本拠地にしていたプロ・プレーヤー・スタジアムでのカードでは、束の間の家族との団らんを過ごすためケイシーはジュピターの自宅から車で往復した。乗っていたのは、10年落ちのホンダ・アコード。妻から「いつ処分するの?」と言われ続けていたが快調で手放したくはなかったと言う。「きっと子どもたちが乗ると思うよ」。逃げ口上を明かし、高笑いを浮かべた顔は印象的だった。
2007年の『Sports Illustrated』誌の投票でMLBの「最もフレンドリーな選手」に選ばれたショーン・ケイシー打撃コーチは、2026年のWBCアメリカ代表チームの選手たちからも大いに慕われた。
陰に陽に持ち前の明るさと話術で支えたケイシー氏は、表に出ることのないチームの精神的支柱であった。
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【マイ・メジャー・ノート】
1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続ける在米スポーツジャーナリスト・木崎英夫記者による深堀りコラム。現場での取材からはもちろん、豊富な取材メモから送るエピソードも。コアなMLBファンのための記事を原則週1本配信。
○著者プロフィール
木崎英夫(きざき・ひでお)
1983年早大卒。1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続けるベースボールジャーナリスト。日刊スポーツや通信社の通信員を務め、2019年からFull-Countの現地記者として活動中。日本では電波媒体で11年間活動。その実績を生かし、2004年には年間最多安打記録を更新したイチローの偉業達成の瞬間を現地・シアトルからニッポン放送でライブ実況を果たす。元メジャーリーガーの大塚晶則氏の半生を描いた『約束のマウンド』(双葉社)では企画・構成を担当。東海大相模高野球部OB。
(木崎英夫 / Hideo Kizaki)