父との約束を“反故”…甲子園出場で生まれた「色気」 油断と慢心、不完全燃焼に終わった夏

元中日・豊田氏が悔やむ最後の夏、東東京大会5回戦で敗退
最後はまさかの敗戦で終わった。元中日外野手の豊田誠佑氏(名古屋市中川区・居酒屋「おちょうしもん」経営)は1974年の日大三3年夏を悔しそうに振り返った。春のセンバツに出場し、夏も当然、優勝候補の一角だったが、東東京大会5回戦で明治高に1-2で敗れて、甲子園春夏連続出場を逃した。「ちょっと舐めていたところもあったと思う」。右翼の守備では自身の“判断ミス”も試合に影響を与えたという。
1973年秋の東京大会を制し、1974年の春の選抜に出場。豊田氏にとって日大三での2年秋、3年春は充実した時間となった。選抜大会は2回戦で銚子商(千葉)に敗れたが「甲子園の土は持って帰らなかった。『また夏来るから拾うな!』って、俺がみんなに言ったんじゃなかったかな。とにかくみんな拾わなかったんです」と話す。必ず夏も甲子園に出る。気合だけでなく自信もあってのことだっただろう。
1974年から東京大会は、東東京と西東京に分かれ、それぞれの代表校が甲子園に出場できることになった。当時の日大三は赤坂にあり、東東京(1976年に町田に移転してからは西東京)。ライバルの早実も東東京で対戦に向けて腕をぶしていた。だが、結果は早実戦にたどり着く前の5回戦で敗退。4回戦で芝浦工大工に12-1で大勝し、勢いづいたはずが、明治高にまさかの黒星を喫した。
「負ける時ってこうなんだなと思うけど、毎回のように満塁のチャンスとかがあったんですよ。向こうのピッチャーはたぶんフォアボールを2桁くらい出したんじゃないかな。そこから打てないわ、スクイズは外されるわで点が入らなかった。“こんなピッチャーなんて”と思いながらやっていたからね。舐めていたところもありましたよね、たぶん」と豊田氏は唇を噛む。
豊田氏が忘れぬ判断ミス「しっかり投げなきゃいけなかった」
右翼守備でもミスを犯した。「二塁ランナーがいて、(打球が)ライト前に来たんです。捕って(走者を)見たら、まだ三塁手前。絶対回らないと自分で判断しちゃった。それが(三塁を)回ったから焦って投げた。いい球がいくわけがないですよね。それで確か(決勝点の)2点目が入ったと思う。しっかり投げなきゃいけなかった」。そんなこともあってのまさかの敗戦。「負けた時は、あー終わったぁって思いましたね」。不完全燃焼の最後の夏だった。
豊田氏にとって青春時代でもあった日大三での3年間。当初は高校卒業後、父が経営する寿司屋の後継者になるべく、板前修業の道に進むつもりだった。父からも勧められていたが「春の選抜に行ったばっかりに僕も色気が出たわけです。親父に『(大学で)4年間、野球をやらせてくれ!』と頼みました」。セレクションを経て、明治大学への進学を決めた。
「(高3の)夏に負けた(明治高の)ピッチャーが明治(大)に来てマネジャー。『お前、あの時、毎回、毎回フォアボール出しやがって』って言ったりもしましたけどね(笑)」。その明大での、島岡吉郎監督をはじめ、新たな出会いが豊田氏の野球人生をバージョンアップさせていく。東京六大学野球では、法大の怪物右腕・江川卓投手(元巨人)との対決も待ち受けていた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)