逸材ルーキーに”非情通告”「出ていってくれ」 1年で抜擢も…襲った違和感「バットが振れない」

豊田誠佑氏は明大に進学し、1年秋からベンチ入りを果たしたが……
元中日外野手の豊田誠佑氏(名古屋市中川区・居酒屋「おちょうしもん」経営)は明大で3年(1977年)春からレギュラーに定着した。いきなり、その春に東京六大学野球リーグの首位打者に輝き、主力打者としてチームに欠かせない存在になっていった。それは危機的状況を乗り越えての結果でもあった。1年(1975年)秋にベンチ入りを果たしながら腰痛に襲われて一時は「合宿所からも出されて、練習も本球場に入れない組だったこともあった」という。
日大三高3年時の1974年春の選抜大会を経験した豊田氏は俊足、巧打の外野手として、明大に進学した。1975年の明大1年春のリーグ戦ではベンチ入りできなかったが、必死に練習を重ねてアピールして「1年秋は代打要員でベンチに入れたんです」と話す。だが、その秋のリーグ戦の終盤になって、腰の状態がおかしくなった。「夏の練習の疲れが出たのかなぁ。もう腰が痛くてバットが振れなくなったんです」。
しかし、島岡吉郎監督に直接「痛い」とは言えなかった。「立教(大)戦だったかなぁ。代打で出たんですよ。1アウト一、二塁で。先輩が島岡さんに『豊田は腰が痛いから駄目ですよ、使えませんよ』って言ってくれていたみたいなんだけど、それでも『行けぇ!』ってなってね。結果は三振ゲッツーでした」。それをきっかけに立場が変わった。「試合に負けて『トヨ! もう合宿から出ていってくれよ』と島岡さんに言われて、合宿から出されたんです」。
その秋に明大はリーグ優勝を成し遂げた。11月の明治神宮大会でも優勝したが、そこに豊田氏の姿はなかった。選ばれたものだけが生活できる合宿所からの“離脱指令”は、いわば“戦力外通告”に等しいくらい重いものだった。「それから、しばらくは(練馬区の)家から通っていましたが、練習も(主力組が練習する)本球場ではなくて、外の明(治)高のグラウンドで自主練習みたいなものでした。厳しいですよ」。
故障リハビリ中だからといって関係ない。「本球場に入れない部員は上級生にもいっぱいいるんです。(大学時代の試合で)たった1打席で終わった人もいっぱいいますからね」と話して、さらにこう続けた。「僕より一つ上の先輩は慶大戦かなんかに代打でいって、三振してそれで終わり。そこからは全然お呼びがかからなかった。その先輩は、卒業してから大企業の会長にまで上り詰められましたけどね」。
一冬越えて巡ってきた再チャンス、3年春にレギュラー奪取
そんな“終わり”のパターンはいくつかあるが、それに絡んで豊田氏は自身が大学4年時(1978年)に、1977年の甲子園優勝経験者である、ひとりの1年生有望選手に対して「悪いことをした」と申し訳なさそうに話した。「何戦だったかは忘れたけど、ノーアウトか1アウトで一、二塁。御大(島岡監督)から『おい、誰か代打いないか』と聞かれて、僕がその選手の名前を言っちゃったんですよ。(練習で)一番いいバッティングをしていたので『彼でいきましょう』ってね」。
4年生・豊田氏の“助言”を受け、島岡監督は、その1年生選手に「行けぇ!」と命じたが、三ゴロ併殺打に終わったという。「強烈な打球のサードゴロで、トントントンでダブルプレー。いいバッティングだったんですよ。ちょっとずれればヒットだし……。でも、それで彼は終わっちゃった。合宿を出されて、二度と入ってこなかった。彼も今は(有名な)企業の重役。若い時には名古屋の支社にいたので『悪かったな、俺が余計なことを言っちゃって』って謝りましたけどね」。
現在、阪神2軍監督の平田勝男氏も豊田氏が明大4年の時の1年生。「勝男はその辺もうまいからね。俺もかわいがったし、ウチの弟(豊田和泰氏)も(明大で)勝男のひとつ上だから両方でかわいがりましたよ。よく(練馬区にある)ウチの店(中華そば屋と寿司屋)にも飯を食いに連れていった」と笑ったが、まさに、ちょっとしたことで立場がどうなるかわからなかった時代。「僕が代打でいきましょうって言った彼にはまだ何回かチャンスを与えてもよかったと思いますけどねぇ」と今でも悔やんでいるわけだ。
大学1年秋に腰痛を発症して、代打で三振に倒れて、合宿を出された豊田氏も、そこで“終わり”を迎えても不思議ではなかったが、何とかその危機は乗り越えた。「僕の場合は(大学)2年(1976年)の春に合宿に戻れたんです」。復帰できる予感などは全くなかったという。本球場の外で、ただひたすら練習しただけ。「そしたら、ある日、上級生から『腰はどうだ』と聞かれたんです。それから『寮に戻れ』ってなって……」。
一冬を越して、再び与えられたチャンスに豊田氏は燃えた。1976年の明大2年時は春も秋もベンチ入り。「試合には出たり、出なかったりだったと思いますけどね」と話すものの、コンディション維持にも神経を使って、同じ失敗は繰り返さなかった。そして、3年(1977年)春からはついに左翼手のレギュラーポジションをつかみ、首位打者に輝いた。法大の怪物右腕・江川卓投手(元巨人)から8打数7安打をマークしたのも、その春。1年秋と冬の試練をクリアして“江川キラー”が誕生した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)