ジャパン選出も「監督は俺をなめていた」 OP戦“飼い殺し”状態も…代打から成り上がり

豊田誠佑氏は明大4年春にリーグ優勝、大学日本一にも主力として貢献
プロは中日一筋の豊田誠佑氏(名古屋市中川区・居酒屋「おちょうしもん」経営)は明大で1977年の3年春からレギュラー外野手として活躍した。1978年の4年春にはリーグ優勝&全日本大学野球選手権優勝を経験。日米大学野球選手権には3年時に続き、4年時にも日本代表に選出され、6年ぶり2度目の米国撃破メンバーとなった。「その時は(明大監督の)島岡(吉郎)さんが日本代表監督で『絶対勝たなきゃいかんぞ』と言われていた」と回顧した。
明大3年の1977年春に豊田氏は左翼の定位置をつかみ、東京六大学リーグの首位打者に輝いた。1学年上で法大4年の江川卓投手(元巨人)から8打数7安打と打ちまくり「江川キラー」と呼ばれ、その年7月に米国で開催された第6回日米大学野球選手権の日本代表メンバーにも選ばれた。総監督は早大元監督の石井連蔵氏で、監督は駒大監督の太田誠氏、コーチは法大監督の五明公男氏という布陣だった。
選手も江川をはじめ、東洋大3年・松沼雅之投手(元西武)、専大3年・中尾孝義捕手(元中日、巨人)、駒大3年・石毛宏典内野手(元西武、ダイエー)、東海大1年・原辰徳内野手(元巨人)ら錚々たるメンバー。その中で豊田氏は「2番・左翼」で起用された。「太田さんは最初、俺をちょっとなめていたと思う。向こう(米国)に行く前のオープン戦ではほとんど使ってくれなかったのでね。それがどっかの試合に代打で打って、その後も結果を出し続けてレギュラーになったんです」。
まさに実力でつかんだポジションだった。ドジャースタジアムなどで7試合を行い、日本は2勝5敗で敗れ、米国が5連覇を達成したが、豊田氏は巧打で活躍した。「かなり打ったからね。敢闘賞をもらった。トロフィーがデカくて、重たくて、持って帰るのが面倒くさいなぁ、なんて思ったりもしたけどね」と笑ったが、大きな自信になったのは言うまでもない。「石井連蔵さんにもよくしていただいた。米国では『部屋に飲みに来い』って呼ばれて行ったりもしたなぁ」と懐かしそうに話した。
ここからの豊田氏の成長は著しく、法大・江川が卒業後の1978年4年春には主力打者として明大のリーグ優勝に貢献した。6月の全日本大学野球選手権も決勝で中尾捕手を擁する専大を破って23年ぶり3回目の優勝を成し遂げたが「あの時は『優勝したら4年生(の主力)は全員、日米野球に選ぶからな』って島岡さんに言われていたんですよ」と明かす。「で、優勝したら、本当に4年生をみんな選んでくれたんです。すごいなぁって思いましたね」。
第1回大会以来6年ぶりに日米大学野球制覇の裏にあった明大勢の“誓い”
1978年の第7回日米大学野球は日本開催で、明大・島岡監督が日本代表監督を務めて、明大から8人を選出した。明大勢で2年連続出場は豊田氏と鹿取義隆投手(元巨人、西武)だけだった。他に早大3年の岡田彰布内野手や専大4年・中尾などが代表入りしたが「(東海大2年だった原)辰徳は選ばれなかったんだよねぇ。ホント、明治が多くて……。それで島岡さんが『こうなったら(米国に)絶対勝たなきゃいかんぞ』って。で、勝っちゃったんだよね」。
第5戦を終えたところで2勝3敗と米国に6連覇への王手をかけられたが、島岡ジャパンは第6戦、第7戦を連勝して4勝3敗、第1回大会以来、6年ぶり2度目の優勝を飾った。MVPは2完封など3勝をマークした東洋大4年の松沼投手が選ばれたが、明大4年の高橋三千丈投手(元中日)ら明大勢の活躍も光った。豊田氏も「俺も打ちましたよ」と島岡監督への恩返しの優勝に胸を張り、こう続けた。
「第何戦だったかは覚えていないけど、フェンスに乗ってホームランを捕ったファインプレーもしたんですよ。のちに中日で山田(久志)さんが監督の時だったかなぁ、『外国人選手を見てきてくれ』って言われて米国に行ったんだけど、その時に会ったメジャー球団のスカウトが、俺が日米(大学野球)でホームランを捕ったバッターだったんですよ。『えーっ、あの時の』なんて話になってねぇ……」。それもまた打倒米国を目指し、夢中になってプレーした結果だった。
明大での4年間で豊田氏は島岡監督に鍛えられて、大きく成長した。大学卒業後の進路はプロ1本に絞った。もともとは高校卒業後に父が練馬区で経営する寿司屋を継ぐために板前修業に入るつもりが、日大三で甲子園に出たことで大学卒業までその道に進むことを先送りにしていたが、明大での大躍進で今度は完全に“野球道”を突き進む形に切り替わった。そして、当初は全く想定していなかった中日ドラゴンズとの縁が生まれたのだった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)