ABSは小さなエンターテイメントに…球場でファンが一喜一憂
今、球場にはプレーとは別の小さなエンターテインメントが生まれている。
ストライク/ボールの自動判定システム「ABS(Automated Ball-Strike)」、通称ロボット審判を使用したチャレンジ制度が今季から導入されて1か月半になろうとしている。検証過程が球場の大型ビジョンに映し出され、判定が出ると(ボールの場合はインチ単位の誤差まで表示される)球場は歓声とため息に包まれる。
近年は、160キロの剛球を誇る投手が増え、ストライクか否かの判定が難しくなりファンや選手からの不満が増大している。この状況に、ホークアイ(Hawkeye)やトラックマン(Trackman)といった高精度トラッキングシステムが急速に普及したことでABS制度の導入に拍車がかかっていた。
ABSのストライクゾーンは定義によると、幅は、ホームベースと同じ17インチ(43.18センチ)。ゾーンの上端は選手の身長の53.5%、下端は選手の身長の27%となり、ゾーンの奥行きは、ホームベースの前面と背面から中央まで8.5インチ(21.59センチ)になる。従来の審判ゾーンが、上55.6%、下24.2%なので、新ゾーンはこれまでよりやや狭くなっている。文字だけだととても分かりにくいので、図にするとイメージができるだろう。
新システム導入が決まった昨秋からABSのルール説明には多くの情報が提供されているので割愛し、ここでは、「人間の審判」に視座を据える。
人間に起きる「認知バイアス」…学術的な研究結果も
先ほど、160キロの剛球がうなる現代野球ではストライク/ボールの判定が難しいと言ったが、20年ほど前でも決して容易ではなかった。理由は、人間には「認知バイアス(錯誤)」と呼ばれる思考や判断が無意識に偏り事実を正しく認識できず非合理的な判断をしてしまう傾向があるからだ。
フィールドの裁定者にもバイアスが存在することを示す証拠がある。
2016年、シカゴ大のケリー・シュー教授と経済学者のトビアス・モスコウィッツ、ダニエル・チェンの3人が発表した論文である。彼らは、2008年から2012年までにMLBのPitch f/xシステムで追跡された全投球を調べ(インプレーになった打球、ファウル、空振り、明らかな死球などを除く)、審判によってコールされた連続投球の組み合わせ90万ペアを探し出した。この中で、ストライクかボールかが「明白な」ものと、ゾーンの縁またはその近辺にある「曖昧な」ものに分類し、前の投球に対する判定が次の投球への判定にバイアスを与えるのかという問いから研究を始めている。
球審が1球目をストライクと判定した場合に、2球目をボールと判定する可能性が高くなるかどうか――膨大なデータから発見したのは、審判は、前の投球をストライクと判定していた場合、2球目をボールとする確率が0.9%高くなるということ。そして、前の2球がともにストライクであった場合は1.3%まで上昇した。さらに、次の投球が「曖昧な」投球であった場合、この傾向はより顕著になり、バイアス効果は「明白な」投球の場合より10〜15倍になっている。同論文は、「明白な」投球は99%が正しく判定されていた一方で、「曖昧な」投球では正確な判定は60%に落ち込んでいるとした。
この傾向を彼らは「ギャンブラーの誤謬(ごびゅう)」として括っている。人は、ある事象に偏りが続くと「そろそろ変わるはず」という思い込みを持つ傾向があると説く心理学の用語であり、過去の偶然的な結果が将来の確率に影響を与えると誤って信じるバイアスである。例えば、ルーレットで赤が5回連続で出た場合、「次は黒が出る確率が高い」と考える人がいるが、実際にはルーレットの各試行は独立していて、過去の結果が次の結果に影響を与えることはない。コイントスも同じで、表が5回出たあと「次は裏が出る」と考えがちだが、その確率は常に50%である。
「2ストライクではゾーンが狭くなり3ボールではゾーンが広くなる」は研究でも明らかに
前出のトビアス・モスコウィッツは行動経済学者のジョン・ワーサイムと共筆した『Scorecasting』で、前述の発見をさらに深掘りしている。2007年から2009年シーズンのPitch f/xデータを用いて調査し、「impact aversion(影響回避)」をあぶり出した――次のストライクで打者が三振になる2ストライクカウント(判定がストライクでもボールでも打席が終了するためimpact aversionが作用しないフルカウントは除外)で、その投球がストライクゾーン内にあった場合、審判が正しくストライクと判定したのはわずか61%で、他のカウントと比べると誤判率は2倍以上に増加する。これは、他のカウントよりも大きな影響がある判定を下すことになるため、「それを避けようとしていたから」と捉えている。
また逆の状況、つまり3ボールカウントでその投球がストライクゾーン外だった場合にも、このimpact aversionの証拠があった。審判は、ストライクゾーン外の投球を87.8%の確率できっちりボールと判定していたが、3ボールカウント(フルカウントを除く)では、正しい判定を下したのはわずか80%だった。よく耳にする「2ストライクではゾーンが狭くなり3ボールではゾーンが広くなる」を裏付けている。
膨大なデータを基に学術的なアングルから分析し審判のストライク/ボール判定のバイアスを論じる書や論文はこの他にも多くあるが、ここまでの展開でも腑に落ちる点は確かにある。ここで、告白をすれば、試合で審判をしたときに、確信が持てなかったコールが頭に残り次の投球に無垢な判断が下せなかったことが私にはある。
もう随分と前のことになるが、ある学童大会で審判を頼まれた。序盤の得点チャンスの場面で右打者の外角球をボールにした。実に微妙なコースだった。それがずっと引っかかっていた。終盤を迎え、それと同じようなコースに来たストレートをストライクとコールしたのを覚えている。
判定の正確さから選手に「ゴッド」と呼ばれたダグ・ハーヴェイの逸話
昨年の7月、イチロー氏が米野球殿堂入りを果たし、クーパーズタウンの殿堂博物館には記念のプレートが飾られたが、そこには球史に名を刻んだ偉大な選手たちの他に10人の名審判員たちの顔があった。その中に、判定の正確さから選手に「ゴッド」と呼ばれたダグ・ハーヴェイ(2018年他界)がいる。31年のキャリアで4673試合に審判を務めた彼が著した『They Called Me God』には、審判員の本質を自らに問い続け一貫した姿勢でフィールドに立ち続けた生き様が描かれている。
ハーヴェイは言う。
「ジョン・F・ケネディ大統領からジョージ・H・W・ブッシュ大統領までの31年間に4673試合の審判を務めた。この間、下した判定に1度も間違いはないと信じている。選手が親しみを込めて私をゴッドと呼んでくれるのはそんなところからかも知れない」
同書が上梓されたのは2014年。奇しくも、ビデオ判定の適用範囲が大幅に拡大された年と重なる。同年の春だった。フロリダでのオープン戦でブルージェイズ・川崎宗則の一塁送球を巡り、史上初のビデオ判定が行われた。2分半後に出た判定は覆らず、打者走者はセーフ。失策が付いた川崎は「時代は変った」と苦笑した。
全てを確実なものにしようとする現代文明の中で脈を得たABS。テクノロジーによる変革の流れはもはや不可逆。だが、瞬時に判断を下す半ば確実で半ば不確実な芸当を継承してきた人間の審判は、ハーヴェイ氏が遺した気概の灯を絶やしてはなるまい。
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【マイ・メジャー・ノート】
1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続ける在米スポーツジャーナリスト・木崎英夫記者による深堀りコラム。現場での取材からはもちろん、豊富な取材メモから送るエピソードも。コアなMLBファンのための記事を原則週1本配信。
○著者プロフィール
木崎英夫(きざき・ひでお)
1983年早大卒。1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続けるベースボールジャーナリスト。日刊スポーツや通信社の通信員を務め、2019年からFull-Countの現地記者として活動中。日本では電波媒体で11年間活動。その実績を生かし、2004年には年間最多安打記録を更新したイチローの偉業達成の瞬間を現地・シアトルからニッポン放送でライブ実況を果たす。元メジャーリーガーの大塚晶則氏の半生を描いた『約束のマウンド』(双葉社)では企画・構成を担当。東海大相模高野球部OB。
(木崎英夫 / Hideo Kizaki)