リーグVなのに…闘将激怒「警備員、何しとんじゃ」 血まみれのユニホーム、見つかった“指”

元中日・豊田誠佑氏【写真:山口真司】
元中日・豊田誠佑氏【写真:山口真司】

1987年に星野監督が就任…最終盤に11試合連続安打&打率.315

 一生、忘れられない。元中日外野手の豊田誠佑氏(名古屋市中川区・居酒屋「おちょうしもん」経営)はプロ10年目の1988年に2度目のリーグ優勝を味わった。初体験だった1982年Vと同様に歓喜の瞬間は左翼を守っていた。今回は明大の先輩であり、仲人でもある星野仙一監督を胴上げできた。「(左翼から)走っていって、何とか間に合いましたよ」。ただし、印象深いのは、闘将の怒声と同僚の血まみれの背中だったという。

 中日が星野体制になったのは1986年オフ。現役時代に“燃える男”と呼ばれた当時39歳の若き指揮官は、2年連続5位に沈んだチームの立て直しに動いた。「闘志なきものは去れ!」と闘争心むきだしの野球を掲げ、キャッチフレーズは「ハードプレーハード」。グラウンドでは鬼神の如く、常に燃えたぎった。「確かに星野さんが監督になってムードが変わったよね」と豊田氏も証言する。そして、自身もまた気合を入れ直して、練習に励んだ。

 1985年は年間4安打、1986年は9安打と精彩を欠いたシーズンが2年続いたが、星野監督の下でもう一度、やり直した。牛島和彦投手ら4選手との交換トレードでロッテから“3冠男”の落合博満内野手が加入するなど、絶えず注目を集める球団で1軍メンバーにくらいついた。1987年シーズンの初出場は開幕2戦目(4月11日の巨人戦、後楽園)で途中から右翼の守備に就いた。4月19日の阪神戦(ナゴヤ球場)では途中出場でシーズン初安打をマークした。

 守備要員、代打が中心ながら時々、スタメンもあった。6月9日の巨人戦(平和台)では、江川卓投手から代打安打も放って「江川キラー」ぶりも見せたように、与えられた出番で必死にプレーした。星野監督もその姿勢を評価して1軍で使い続けた。そんな豊田氏の活躍が特に目立ったのは、終盤9月下旬からだった。シーズン5度目のスタメン「1番・左翼」で出た9月27日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)で4打数3安打1四球。それをきっかけに打ちまくった。

 そこからシーズンラストまで14試合連続で1番打者を務め、10月1日の巨人戦(ナゴヤ球場)から11試合連続安打でフィニッシュし、打率を.315まで上昇させた。優勝した巨人には及ばなかったものの、広島との2位争いを制する原動力になった。「よう打ったと思う。あの時はセンターから右に打つことしか頭になかったもんなぁ」と豊田氏は話す。前年までの苦境を乗り越え、充実感にも包まれていたことだろう。

 この年の11月12日に巨人・江川が現役引退を正式発表した。豊田氏にとっては大学時代から意識せざるを得なかった1歳年上の大投手。「別にそれは何とも」と言葉少なだったが、ひとつの時代の終わりを感じた上で、節目のプロ10年目、1988年シーズンに向けて、走り出した。新たにチームにはレベルの高いルーキーも加わった。PL学園からドラフト1位入団の立浪和義内野手の技術とセンスには驚くばかりだったという。

山本昌氏は1988年に米国修行…豊田氏感慨「あの時、アメリカに残ったから」

「立浪の隣でケージに入るのが嫌でしたよ。だって、あんな小さい高校生がキャン、キャン打ち返すからね。やっぱり、ちょっとモノが違うなと思いましたね」と豊田氏は振り返った。当時プロ未勝利の5年目中継ぎ左腕だった山本昌投手のことも「よく覚えている」と言う。「(1988年春に行われた米国フロリダ州)ベロビーチキャンプで山本昌とは同室だったけど、泣きまくっていたからなぁ。日本に帰りたい、帰りたいってね」。

 山本昌はベロビーチキャンプ後も米国にとどまってドジャースに野球留学。そこでスクリューボールなどを覚えて大進化し、夏場に帰国して先発投手として活躍するようになった。それどころか、50歳まで現役を続けた通算219勝のレジェンド左腕になったのだからすさまじい変身ぶり。豊田氏も「あの時、アメリカに残ったから、あそこまで頑張れたんだもんなぁ」としみじみと語った。

 そんな1988年に星野中日はセ・リーグ優勝を成し遂げた。前年最後に豊田氏が務めた1番打者には、開幕から彦野利勝外野手が起用され、「11」まで伸ばしていた連続試合安打もあっさり止まったが、めげることなく再び代打中心の出番に全力を尽くした。中日は7月に6連敗を喫したが、ナゴヤ球場でのベースランニングなどの“やり直し練習”を実施し、それを機に突っ走って栄冠を勝ち取った。「(7月の)ナゴヤ球場でのあの練習の時は暑かったなぁ。アメリカンノックとかもやったしねぇ……」。

 豊田氏は88試合、84打数16安打の打率.190と結果を残せなかったが、優勝を決めた本拠地・ナゴヤ球場での10月7日のヤクルト戦では途中から左翼を守った。中日守護神・郭源治投手がヤクルト・秦真司捕手を空振り三振に仕留めてゲームセットとなり、星野監督の胴上げには左翼のポジションから駆けつけた。スタンドからファンがなだれ込んで「あっという間に」人だかりができて、逃げるようにベンチに戻ることにはなったが、忘れられない歓喜の瞬間だった。

 そして豊田氏は苦笑しながら付け加えた。「星野さんは『警備員があれだけ立っていて何しとんやぁ!』って怒っていました。それに大石(友好)さんだったかな、(ユニホームの)背中が血で真っ赤だったんですよ」。スタンドから乱入する際、金網で指を切ったファンが喜びで痛みも感じなかったのか、その手で大石捕手などの背中をバンバン叩いて血まみれにしていた。昭和天皇がご病気だったことで、ビールかけなどは自粛となったが、球場では切断された指が見つかったり、まさに想像を絶する異常事態になっていたわけだ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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