戦力外→移籍初登板で炎上…“逝った”右肘「このままクビに」 3月に味わった絶望

野球人生の契機となった2つの出会い
中日、楽天で通算187登板を果たした川岸強氏は現在、台湾プロ野球(CPBL)・楽天モンキーズの1軍投手コーチを務めている。セットアッパーとして躍動した右腕は、戦力外通告や大怪我といった挫折から這い上がった「苦労人」でもある。自身の経験と恩師の言葉を胸に、言葉の壁を越えて台湾選手といかに「対話」し、成長に導いているのか。日本人コーチの奮闘の日々に迫った。
川岸氏の野球人生は、決して順風満帆だったわけではない。中日から2003年ドラフト7巡目で指名されて入団も、当初は怪我に泣かされて、苦しむ時期が長かった。
モチベーションが上がらず、トレーニングルームで暗い顔をしていた際、当時2軍トレーニングコーチだった塚本洋氏から「今日、気持ちが上がらないんだったら帰っていいぞ」と声をかけられた。
練習を早めに切り上げて帰ることに気が引けていた川岸氏に、塚本氏はこう続けた。「1週間は7日間ある。4勝3敗で勝ち越せば成長できるから、たまには負けたっていいんだよ。明日頑張れ」。1週間トータルで勝ち越せばいいという教えに深く救われた。この言葉は、後の指導者人生の根幹をなしているという。
プロ人生では、運命の出会いがもうひとつ。戦力外通告を経て2007年に入団した楽天で指揮を執っていた名将・野村克也監督だった。入団直後の紅白戦で登板し、初めて野村監督と言葉を交わした際、「まだまだやれるぞ」と声をかけられた。
当時の心境を「その言葉がすごく嬉しくて、『この人の下で野球がやりたい、この人の力になりたい』と強く思いました」と語る。野村監督の代名詞として、選手を復活させる「野村再生工場」があげられるが、「自分がまさにそうなれたらいいなと。もう、がむしゃらに腕を振って投げた」と野球人生のターニングポイントとなったシーンを振り返る。
がむしゃらに“もがいた”日々が繋いだ現役生活
恩師への思いを胸に再起を誓った移籍1年目は、開幕1軍入りを果たしたものの、実は右肘に強い痛みを抱えていた。そんな状況の中、ホーム開幕のオリックス戦で先発予定だった投手のアクシデントにより、急遽先発マウンドに上がることになった。
結果は、3回途中7失点でKO。「準備もできていなくて実力もなくて、結果的に試合を壊してしまいました。それと同時に、肘も本当に投げられない状態になってしまった。テスト入団でしたし、『もうこのままクビになるのかな、ダメかな』と絶望しました」。
その後、トレーナーやコーチ陣の励ましもあり、約3~4か月の間、激しいウエートトレーニングと食事の増量に必死に取り組んだ。まさに泥臭く“もがいた”期間だった。
成果は如実に表れた。「夏頃には体重が5キロ増え、球速も以前より5キロ速くなって復活できたんです。あの時、やったことのないことにチャレンジしてもがいたからこそ、野球人生が伸びたと思っています。あの怪我がなければ、もっと早く終わっていたのかもしれません」と頷いた。
移籍初年度の2007年は11登板に終わるも、2008年は54試合に登板してブルペンを支えた。その後も貴重な中継ぎとして2012年まで現役を続行。がむしゃらにトレーニングに励んだ日々が競技人生を伸ばした形となった。
引退後は、球団職員として東北6県での野球教室をメインに、小学校や企業での講演、テレビ解説といった幅広い業務を経験した。選手の時とは全く違う「社会」に出て、自ら動いて一から学ぶ日々だったという。
その後、2015年には中学生の硬式野球チーム「東北楽天リトルシニア」の指導にも携わることになり、充実した日々を送っていた。2021年、姉妹球団である台湾・楽天モンキーズへのコーチ就任打診を受けたことが転機となった。
実はそれ以前から「次のチャレンジとして、イーグルスには台湾という道もある」と自ら気づき、気にかけていたという。だからこそ、オファーを受けた際は迷うことなく決断した。この挑戦が“指導者・川岸強”を次のステージに導くことになる。
(「パ・リーグ インサイト」高木隆)
(記事提供:パ・リーグ インサイト)