朝6時、小学5年に課せられた「4000」 嫌々だった“命令”…甲子園制覇&ドラ1指名の原点

元広島の西田真二氏が憧れた、地元・和歌山の左腕エース
聖地を夢見た。元広島外野手の西田真二氏(野球評論家、香川オリーブガイナーズアドバイザー)は、和歌山市立貴志小学校4年時(1970年)に貴志少年野球団に入った。小5からは監督に就任した父・嘉平さんにグラウンドでも鍛えられ、エースとして成長。鉛のシューズや重いボールを使っての練習で基礎体力がつきレベルアップするとともに、地元・和歌山から甲子園のアイドルになった左腕に憧れたという。
野球を始めた西田氏は、父の指令により、毎日、朝6時から約4キロのランニングがノルマになった。「(グラウンドでの練習以外に)家ではブロック塀で壁打ちしたり、親父が鉛のシューズを買ってくれて、そういうのも使いました。今でも大谷翔平投手(ドジャース)が重いボールや軽いボールを使って練習したりしているけど、あの頃の僕は重いボールの方を持っていて、それを投げていた。おじいちゃんとキャッチボールをしていました」。
続けていくうちに成長を感じたそうだ。「ボール投げで遠くまで投げられるようになったし、球も速くなった。初めは親父に強制的にやらされた部分があったけど、結果的にあれで体力がつきましたからね。小5からは父が監督になって僕がエース。入ったころは部員数も少なくて弱いチームだったんですけど、小6の時には和歌山市の大会で初めて優勝したんです。チームとしてみんなで楽しめたし、勝つ喜びもみんなで。よかったと思います」。
憧れの存在もいた。「当時の和歌山は野球が強かった。僕が小学校の時は、箕島高校の島本講平さん。あの人を見て、ああ、すごいなぁって思いましたよ。男前だったし、地元で身近だったしね。今の小学生が大谷翔平を見るような感覚だったんじゃないかと思います」。島本投手は箕島の左腕エース&4番打者として、1970年の第42回選抜高等学校野球大会で優勝。甘いマスクもあって、甲子園のアイドル選手として騒がれた。
前年(1969年)夏の甲子園では、準優勝に貢献した三沢・太田幸司投手が、女性ファンを虜にする「コーちゃんフィーバー」の社会現象を巻き起こした。それに続き、島本氏は「コーちゃん2号」と呼ばれるなど大人気。当時、小学生の西田氏も同じ左腕として、その実力とかっこよさに影響を受けた。目標の選手となり、同時に甲子園で投げたいと思うようになったそうだ。
高校3年で、PLのエース&4番として全国制覇に貢献
「プロ野球は当時、情報が少なかったけど、タイガースの江夏(豊)さんや近鉄の鈴木啓示さんは同じ左ですから、江夏さんのフォームを真似たり、鈴木さんのセットから投げたり、そういうことも考えてやっていましたね。打つ方は左打者の(南海の)門田博光さん。もちろん(巨人の)王(貞治)さんの1本足打法もやっていましたよ」。投手としても、打者としても、自身をとにかくレベルアップさせたい一心だった。
1973年、西田氏は和歌山市立河西中学校に進み、軟式野球部に入部すると、さらに成長する。中3の時には複数の強豪校から勧誘されるなど、和歌山で有名な選手になっていった。最終的にはPL学園への進学を決め、中3の3学期からPL学園中に転校して高校野球に備えた。そして、1978年の高3夏には、目標にしていた箕島・島本選手と同じく、PLのエース&4番で全国制覇を成し遂げるのだから、まさに小学校時代の夢を実現させたわけだ。
その礎を築いてくれたのは、貴志少年野球団の監督でもあった父・嘉平さんなのは言うまでもない。「父は昨年(2025年)体調を崩して亡くなりました。熱血漢で、元気がよかったけど、やっぱり年とともにね……。親父は僕が(小学校を)卒業してからも、チームの監督を40年以上、続けたんですよ。普通なら、子どもが(チームに)いないのに、そんなに長くしないでしょ。父兄とかへの面倒見もよかったみたいですよ」。西田氏は父とともに鍛錬した日々を思い起こしながら「親父のおかげですよね」と感謝の言葉も口にした。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)