開幕4番も…失い始めた居場所 “押し付けられた”大役、通じなかった「嫌だ」

元広島・西田真二氏【写真:山口真司】
元広島・西田真二氏【写真:山口真司】

西武との日本Sで先に王手をかけるも…西田氏の忘れぬ走塁ミス

“流れ”が下降線に……。元広島外野手の西田真二氏(野球評論家、香川オリーブガイナーズアドバイザー)はプロ10年目の1992年を開幕4番スタメンからスタートさせた。チームの選手会長にも就任したシーズンでもあったが「調子がイマイチだった」と苦しい闘いの始まりでもあった。世代交代の波も感じたという。「(首脳陣は)若手を使い始めた。まだまだ負けていない、という気持ちはあったんだけどね」と振り返った。

 西田氏は4番打者として1991年の広島優勝に貢献したが、その年の終盤から調子を落とし、3割4分近くあった打率も最終的には2割8分9厘にまで下げた。3勝4敗で惜しくも日本一を逃した日本シリーズも第1戦(10月19日、西武)は左腕・工藤公康投手の先発もあってスタメン落ち、2戦目以降は3番で起用され、18打数3安打3打点の成績に終わった(シリーズの4番はロッド・アレン外野手が務めた)。

「(広島)市民球場(での第4戦)で潮崎(哲也投手)から、もうちょっとでホームランっていうのは覚えているね(中越え2点適時打)。それ以外は(第2戦の)郭(泰源投手)からのタイムリー(中前適時打)か……。俺、あのシリーズで走塁ミスもしたんだよ、サードコーチャーの木下(富雄)さんに悪いことをしてしまった。そういう記憶もあるね」。第5戦を終えて広島が3勝2敗としながら、第6、7戦を連敗した悔しい負けでもあった。

「王手はかけたけどねぇ……。ライオンズは野手に清原(和博内野手)、秋山(幸二外野手)、(オレステス・)デストラーデ(内野手)らがいたし、ピッチャーも完璧やったですよ。対してカープはピストル打線。ピッチャーはまずまずだったけどね」

 そんなプロ9年目を終えた後、西田氏はチームの選手会長に就任した。「『嫌だ』って言ったんだけど、大野(豊)さんや達川(光男)さんが“やれ”って。(監督の山本)浩二さんは“トラ(西田氏の愛称)で大丈夫なんか”って感じだった(笑)」。

前田智徳や江藤智らが台頭…年間では打率.231&5HR

 新たな“肩書き”も加えて臨んだ節目の10年目は4月5日の開幕巨人戦(広島)に「4番・左翼」で出場した。「4タコ。相手は槙原(寛己投手)だったね」と言って、こう続けた。「町田(公二郎外野手)がドラフト1位で入ってきた時でね。カネ(金本知憲外野手)はまだ2軍だったけど、前田(智徳外野手)や江藤(智内野手)も出てきていた。その時、俺は32歳。結果を出さなきゃって思っていたけど、やっぱりベンチが多くなって……」。

 6月頃まではスタメン4番が多かったが、7月以降は徐々に出番も減っていった。その中で忘れられないのは、「5番・右翼」で出た7月16日の中日戦(ナゴヤ球場)。1-1の6回に勝ち越し右前適時打を放ち、北別府学投手の200勝達成を“バックアップ”できたことだ。「ペイさんには可愛がってもらったし、そういうところで打てたっていうのはやっぱりね。(2023年6月16日に)亡くなったけど、コントロールもハートも超一級品のすごいピッチャーだった……」としんみりと話した。

 1992年の西田氏成績は93試合、255打数59安打の打率.231、5本塁打、32打点。ポイント、ポイントでは目立つ活躍もあったが、トータルでは数字を下げた。「選手会長もはっきり言って、まぁ、タイプじゃなかったと思う。なんていうか、まとめ役って感じじゃなかったんだよね、俺は。我が道を行くって感じだから。我が道っていいような言い方をしたけど、プロだから同じ方向を向いてやるって部分は大事なんですよ。その辺が俺はあまりうまくいかなかったと思う」。

 もちろん、グラウンドでは西田氏なりにやれることはやったつもりだ。「横浜スタジアムで上段に打ったりとかもあった。この体で意外と飛距離もあったんですよ。握力と右手が強かったのかフォローが大きかったよね。レッドソックスの吉田正尚外野手みたい? そういう感じかなぁ。ちょっと俺の方が身長は大きいかもわからないし、向こうの方が歯は白いけどね(笑)」。しかし、“流れ”はよくならなかった。この先には思わぬ怪我など厳しい状況が待ち受けていた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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