2軍降格なのに「楽しかった」 元広島4番の“後悔”…また戻った代打稼業「それも人生」

元広島・西田真二氏【写真:山口真司】
元広島・西田真二氏【写真:山口真司】

肉離れで開幕スタメン落ち…9打席連続無安打で2軍落ち

 晩年は怪我に泣かされた。元広島外野手の西田真二氏(野球評論家、香川オリーブガイナーズアドバイザー)は代打の切り札としての活躍を経て、赤ヘルの4番打者も務めたが、プロ11年目の1993年からは再び、代打起用がメインになった。前田智徳外野手ら若手の台頭もあったなか、手痛かったのはキャンプで故障して出遅れたことだ。調子が上がらず2軍落ちも経験。「あの時、やるべきことをやっとけば……」と反省の言葉を口にした。

 1993年春季キャンプ中に西田氏は故障離脱した。「足を肉離れして……」。これが響いた。開幕スタメン外野陣は左翼にルイス・メディーナ外野手、中堅・前田で右翼がマーティ・ブラウン外野手。他にも町田公二郎外野手らが控えだった。「スタメンでは、もう出られないなという感じだった」。しかも絶不調だった。開幕4戦目の4月14日の横浜戦(横浜)から5月9日の阪神戦(甲子園)までの9打席の代打機会で、無安打1四球と苦しみ、2軍落ちを命じられた。

「(監督の山本)浩二さんに『トラ(西田氏の愛称)! 2軍で鍛えてこい』って言われてね。初めは“クソっ、やってやる”って思いましたよ」と西田氏は話す。「でもね、若い子たちと遠征とかにも行って、何か2軍が楽しかったんですよ。違った視野で見られてね。まぁ、2軍では(三村敏之)監督も(内田順三打撃)コーチも、俺に気を使ってくれたというか、あるいは“うるさいのが来たな”って嫌だったのかもしれないけどね(笑)」。

 2軍では若手の手本になった。「内田さんが2軍の選手に『トラのバッティングをよう見とけよ』って言っていましたからね。おだててくれました(笑)。三村さんもかわいがってくれましたしね」。だが、状態の方は元に戻らなかった。「浩二さんは、また1軍に上げてくれたけど、若手への切り替えの年でもあったしね」。1軍復帰後も出番は代打がメインだった。「それに抵抗がなかったとは言わないけど、もともと俺は本当の4番じゃないし、チームの方針もあったわけだから」。

 さらにこう話した。「浩二さんは俺にチャンスをまたくれた。それを生かせなかったのは俺が悪い。優勝当時のようにホームランとか打ったりすれば、また使われていたわけだから……。結果を出せなければ、ベテランより若手を使いますよ。それは俺が一番わかっていたこと。もうその時は力不足です。今思えば、2軍に落ちた時、もうちょっと、やるべきことをしっかりやっとけばよかったんだけどね。バットを振り込んだり、走り込んだり、意気込んでやっていれば……。でも、それも人生だしね」。

山本監督が退任→三村政権へ…総合力に秀でた若手が台頭

 1993年7月20日には同い年の“炎のストッパー”津田恒実投手が脳腫瘍のため亡くなった。「彼の場合は人望、何か憎めない雰囲気があったし、やっぱり、あのピッチングスタイルが目に焼き付いていますよ。打てるもんなら、打ってみろっていう真っ直ぐがね……。北海道遠征とかでは共通の知人と一緒に食事に行ったりもした。俺はあまり同級生とつるまなかったので、ツネが俺をどういうふうに思っていたかはわからないけどね」。

 そんな悲しい知らせもあったプロ11年目の西田氏は34試合の出場にとどまり、37打数9安打、0本塁打、4打点に終わった。広島は最下位に沈み、山本浩二監督は退任した。新監督には2軍監督だった三村氏が就任。「チームの転換期。ミムさんは(キャッチフレーズに)『トータルベースボール』を掲げて、やっぱりトータル的に走れて、守れて、打てる、そういう選手を使っていった。それでカネ(金本知憲外野手)もメグ(緒方孝市外野手)も出てきたわけだしね」。

 結果、西田氏は1994年シーズンからの三村カープでも代打で使われた。「ミムさんには俺、結構わがままを言える方だったけど、あの人も意外とクールなところがあったんでね」。不運も重なった。代打で調子を上げて、そろそろスタメンのチャンスがありそうな時に、左太腿裏肉離れを発症した。「あれが痛かったね」。それは5月8日のヤクルト戦(神宮)での出来事。またもや怪我に行く手を阻まれた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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