全力疾走で左足が“プチーッ” 神宮から救急車で搬送…34歳で覚悟した2文字「俺も終わった」

寒空の神宮で代打に登場、8回に適時打も…34歳の肉体が“悲鳴”
救急車で運ばれた。広島で4番打者も務めた西田真二氏(野球評論家、香川オリーブガイナーズアドバイザー)にとって、プロ12年目の1994年5月8日のヤクルト戦(神宮)は「最悪の日」になった。チャンスに代打で出場して適時打を放ったまではよかったが、全力疾走で一塁を駆け抜ける際に左足太腿裏の肉離れを発症。「プチーッと……。あの瞬間は今も覚えている」と無念そうに話した。
その年の西田氏は開幕から代打での起用が続いたが、徐々に調子を上げていった。4月27日の巨人戦(広島)、4月30日の中日戦(ナゴヤ球場)では安打を記録し、5月4日の阪神戦(広島)では3-3の9回裏に代打サヨナラ犠飛でヒーローになった。「満塁で阪神のピッチャーは郭李(建夫)だったけど、あれは一番うれしかった。サヨナラ犠牲フライになって一塁付近でみんなが胴上げしてくれたんですよ。あの時の俺、幸せだったなぁ」。
現在は、サヨナラ打を放つとナインから祝福の水ぶっかけシャワーが定番になっているが、当時の広島は胴上げで祝福していた。「終わってから食事にも行ったしね」。打撃の状態もよくなり、スタメン復帰も近そうな雰囲気だった。「それはどうかわからないけどね。音(重鎮外野手)とかもいたし……。まぁ、でも、ちょこちょこ結果も出ていたから、そろそろありそうな気もしていたけどね」。そんな状況で5月8日の“悪夢”が起きた。
3-1の8回だった。得点機に河田雄祐外野手の代打で出た西田氏はヤクルト5番手の内藤尚行投手から適時打を放った。そこでの悲劇だった。「打った瞬間にセンターに抜けそうなのを(ヤクルト)笘篠(賢治)がセカンドにいたんよ。タイムリー内野安打になるから、こっちは必死。それでもう120%で走ったわけよ。そしたらプチーッ。最悪だった。あれがセンターに抜けていたら、オーバーランして切れていなかったと思うけどね」と振り返った。
「あの日の神宮は寒くてね。アップ不足、準備不足だった。やっぱりいきなりの代打で、若い頃とは違うじゃん。寒い時はしっかり体操して、しっかり走り込まないと……。若い時はそんなのあまりしなくても体が動くけど、34になろうかって時だったし、ちゃんとやっていなきゃいけなかった」。救急車で都内の病院に運ばれたが、肉離れでも重傷の部類だった。「広島に帰って(和歌山から)お袋が来てくれたんだけど、“ああ俺も終わったな”みたいな気持ちにもなったね」
離脱中に許した槙原の完全試合…広島は最下位から猛追も及ばず
何とか切り替えてリハビリに励んだが、2か月以上、戦列を離れた。その間の5月18日の巨人戦(福岡ドーム)で、広島打線は槙原寛己投手に完全試合達成を許した。「あの試合には前田(智徳外野手)も怪我で出ていなかった。俺も前田もいなかったな、ってマキにも言ったことがあるけどね。だけど、完全試合は凄いよ。誰がいなくてもなかなかできない。だからミスターパーフェクトって言われる」と話したが、自身が離脱中のカープの屈辱が復帰への思いを高めたのかもしれない。
7月下旬に西田氏は1軍に復帰した。出番はやはり代打だったが、与えられた場面で全力は尽くした。その年の広島は6月まで最下位だったが、7月から大逆襲。8月21日から9月2日まで10連勝するなど、一転して優勝争いに“参戦”し、一時は首位・巨人に1.5差まで迫った。最後は巨人と中日の10・8最終決戦となり、広島は3位に終わったものの、すさまじい巻き返しぶりだった。西田氏はそんな勢いあるチームの中で懸命にプレーした。
しかしながら、5月8日に肉離れをした影響はつきまとった。打撃フォームも故障前とは違っていたそうだ。「なんかもう踏ん張りがきかなくなったんですよ。あと、走り方とかもね」。意識していなくても、左足をかばうようにもなったし、打球の飛び方も変わったという。「やっぱり普通の怪我じゃなかったからね。プチーっだったからね」。1994年の西田氏は41試合、36打数8安打、0本塁打、8打点。思うようにならない歯がゆさがあった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)