描いたイメージを見事に言語化するイチロー
マリナーズのイチロー氏(会長付特別補佐兼インストラクター)が発してきた言葉には、前回取り上げたパラドックス(逆説)を含んだものが多くあり、彼がモノを考えるときの特徴の1つ――見えていないところが実は大事――を映す。特筆すべきものはまだある。思っていることを効果的な言葉に変換する姿勢と能力に長けていること。描いたイメージを見事に言語化するイチロー氏の言葉の森へ分け入る。【全2回の後編】
もう何年も前になるが、立ち寄った本屋で読んだ故・野村克也氏が社会人野球の監督時代に遭遇したエピソードがずっと記憶に留まっている。
シダックス(2006年廃部)で3年間指揮を執った野村氏は、社会人の指導者研修会に参加した。講師はプロ野球で首位打者に輝いたこともある解説者。熱心にメモを取る監督たちの中から「打撃とは」の質問が出ると、こう答えたという。「打てるゾーンに来た球は、何でも打っていくこと」。野村氏はその返答に「同じプロOBとして恥ずかしかった」と述懐している。
イチローは、「(安打に)説明できないものはないですね」と言った。
イメージしたものを言葉にして、記者に考えるプロセスを踏んでもらうスタイルを大切にしていたのがイチローである。その好例を幾つかすくい取ってみよう。
微妙なコースに来る球になんとかバットを出して、インプレーにする打撃を見たことがあるだろう。そういうときは「食らいつく」と表現されることが多いが、イチローの感覚は違っている。
「ボール球を打ちにいくときっていうのは、(体勢を)崩した方がヒットにしやすいことがたくさんある。そのうちの1つだね」
2007年9月13日のデビルレイズ(現レイズ)戦だった。ボールカウント3-1から外角に沈むチェンジアップをレフト前に弾き返す適時打を放ったが、そのとき、体勢は「崩された」のではなく「崩した」ものだった。今、野球をしている子どもたちにとって、この上ないヒントになのではないだろうか。「崩されまい」とバットを振るのと「崩そう」として振るのとでは、後者の方がバットの操作に柔らかさが出てくる。振り出しからインパクトまでの時間で保つべき「心のバランス」を焦点化した表現である。
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外角のチェンジアップを左前に運んだイチロー MLB 公式YouTube
その8日後だった。9月22日の敵地エンゼルス戦で、バートロ・コローンの厳しい内角球に対応したヒットに「手が出ることが前提」と話している。
「あのツーシームは手が出ないことが多い。手が出ることが前提で、そのあとは自分の体の動きに任すしかない。そういう打撃です、あそこは」
ベテラン右腕コローンは、左打者のボール気味のところから内角ゾーンへと動かす厄介なツーシームを武器にする。追い込まれた場合、見逃せば三振を食らう。引っ張ればバットをへし折られ詰まった内野ゴロになるのが関の山。だが、打たなければ可能性はゼロ。この2択から、イチローはヒットの可能性を残す逆方向への打球を試みた。1-2と不利なカウントで来たその球を左翼線へ運び打点を稼いだ。打とうとする意識の中に“どこに打てば勝機があるか”を潜ませた、マインドとテクニックを融合させた妙味に富む言葉である。
首を傾げたイチロー「ある程度、違う球を予測しているから手が出るんです」
“手を出すか出さないか”で思い出すのは、2005年6月5日、野茂英雄(デビルレイズ)との4年ぶりの対決である。日米通算200勝まであと「1」に迫っていた野茂から、イチローは同点の先陣を切るセンター前ヒットを放った。2ストライクと追い込まれてからの3球目、地面に着きそうな外角低めのフォークをテニスのロブショットのようなバット操作で打ち返した。サヨナラ勝ちを収めた試合後、その安打について「フォークを狙っていたのか」の質問が出た。
イチローはその問いに、微かに首を傾げた。
「フォークを待っていたら、あそこには手を出さない。ある程度、違う球を予測しているから手が出るんです」
追い込まれてから球種・コースを絞るのは高リスクである。だからこそボールゾーンの球でもバットを出しにいった。不利なカウントから、野茂の宝刀フォークを打ち返したそこだけを切り取って見ることの危うさを暗示する言葉でもある。
メジャー実働19年で歴代24位の3089安打を放ったイチローの思考は、打撃と同じように重層的である。
2003年6月4日、敵地でのフィリーズ戦で先発のビセンテ・パディーヤから4打席連続ヒットを放ったときの言葉には、バットコントロールだけでヒットは生まれないというメッセージを含んでいた。
「(打席数と)同じ数だけ安打が出たというのは、いろんな頭を使うんです。同じような安打が続いたとしても、相手の投球の組み立てが同じだとしても、考えていることは(打席ごとに)違う」
相手バッテリーは打席ごとにイチローの反応を観察している。ファウルの打球方向からその打席での”狙い“を読もうとする場合もある。一方、イチローにしてみれば、前の打席で打った球が次の打席の初球に来るのかどうかなどの、読みも入れる。絶妙なバット操作の芸当も相手を上回る柔軟な“頭”なくして、十分に生かすことはできない。イチローが勢いでヒットを打つことなどないのだ。
「そう思わないようにするというなら、そう思ってしまっているということ」
イチローの言葉の森も出口が見えてきた。最後は、「左脳的思考」から生まれる言葉で通り抜けよう。
論理的・分析的な表現は「左脳的思考」から生まれることを知ったのは、人類が初めて月に降り立ったアポロ11号月面着陸(1969年)の同時通訳を務め、主要国首脳会議(サミット)などで外交の裏方として貢献された、日本の会議通訳の草分けの1人だった故・村松増美氏との談笑だった。
ある日のこと。イチローが言った「そう思わないようにするというなら、そう思ってしまっているということ」を話題に出すと、福々しい顔の目が大きくなり、口角を上げた村松氏が切り出した。
「イチローさんは、左脳的な考え方をするんですね。ロジカルな言葉が欧米人のようですよ。『火のないところに煙は立たない』という諺がありますね、”Where there is smoke, there is fire.”って習いましたでしょ。原因となるような事実がなければ噂は立たないという意味ね。でもね、この諺を『証拠がないのは、なかったことの証拠にはならない』って言い換えるロジカルな人も結構いましてね。どうです? 日本人には思いもつかないでしょ。でも、よくよく考えると、本質を突いてますよ」
こうなると、哲学の話になってくるが、イチローの左脳的思考がよく分かる言葉を1つ切り取ろう。
2012年7月22日、4打数無安打に終わった敵地でのレイズ戦でイチローは足でかき回した。初回、無死二塁の好機でプッシュバントを試みたが、投ゴロとなって二塁走者は三塁でアウト。そこから一気に仕掛けた。二盗、三盗と決めて3番モンテロの適時二塁打で先制のホームを踏んだ。「連続盗塁はバントのミスを取り戻そうとしたからか」。イチローはこの問いに敏感に反応した。
「取り戻そうという意識があるということは、普段は自分の力以下でやっている可能性がある。それは問題。だから、そういう発想にはなかなかならない」
左脳的な分析でその問いを一蹴したイチローは、それ以上は言わなかったが、こういうことではないか――。ミスは「成功で上書き」をすれば帳消しにできるという考えで野球をしていると、常に隙がある気持でプレーをすることになる。「常にベストを尽くす」に言語脳を参加させて丹念に絞り出した言葉である。バントも、犠牲フライも「ヒットを狙って打つ」と言うイチローの強靭な意志は、この左脳的表現と底で通じている。
体験型のスポーツイベントで、小中学生に野球の指導を行ったイチロー氏の言葉は曇らない。日本の野球人口が減少傾向にある中で、今、必要なのは、子どもたちの心に沁み入る分かりやすくて、魅力的な言葉を考える指導者ではないだろうか。イチロー氏が偉大な選手であったから素晴らしい言葉を持っているのではなく、考え抜いて野球をしてきたからイチロー流の言葉ができあがったのだ。
ネット上の情報をコピーしたりペーストしたりして“考えたフリができる”時代に、イチロー氏の言葉は厚みを増す。
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【マイ・メジャー・ノート】
1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続ける在米スポーツジャーナリスト・木崎英夫記者による深堀りコラム。現場での取材からはもちろん、豊富な取材メモから送るエピソードも。コアなMLBファンのための記事を原則週1本配信。
○著者プロフィール
木崎英夫(きざき・ひでお)
1983年早大卒。1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続けるベースボールジャーナリスト。日刊スポーツや通信社の通信員を務め、2019年からFull-Countの現地記者として活動中。日本では電波媒体で11年間活動。その実績を生かし、2004年には年間最多安打記録を更新したイチローの偉業達成の瞬間を現地・シアトルからニッポン放送でライブ実況を果たす。元メジャーリーガーの大塚晶則氏の半生を描いた『約束のマウンド』(双葉社)では企画・構成を担当。東海大相模高野球部OB。
(木崎英夫 / Hideo Kizaki)