甲子園に憧れるも「“はい”しか言えなかった」 優先したコーチの意見…元虎戦士が明かす分岐点

現役時代、阪神で活躍した八木裕氏【写真:山口真司】
現役時代、阪神で活躍した八木裕氏【写真:山口真司】

阪神OBの八木氏が振り返る高校時代

 NPB通算126本塁打をマークした元阪神の八木裕氏(野球評論家)は、玉野市立東児中から岡山県立岡山東商に進んだ。打ってよし、投げてよしの逸材として注目された中で、そこを選択したのは同校OBからの勧めもあってのことだった。一方、後に阪神で同僚となるライバルの横谷総一氏は、岡山市立御南(みなん)中から岡山県立岡山南へ進学。この2人の進路には周りの選手たちも敏感に反応し、八木氏についていくか、横谷氏についていくか、の動きまであったという。

 岡山県大会準優勝の東児中でエース兼4番打者だった八木氏は、複数の高校から誘われた中で、公立の岡山東商を選択した。「私学では(岡山)理大附属もわざわざ監督がいらっしゃって『来てくれ』と言われたんですが『申し訳ありませんが東(商)に行きたい』と言いました。『東に(試験で)落ちた時には理大附属に行かせてもらいます。東に受かったら東に行きます』という条件で話はまとまったんですけどね」。

 岡山東商は東児中のコーチがOBという縁もあったという。「僕の家の近くに住んでおられて、すっごい厳しい方だったんですが、東の伝統的な野球を教えてもらってね。で、その方に『東に行った方がいいんじゃないか』って。公立では姉が(岡山)南に行っていたし、チラッと南というのもあったんです。南は甲子園(1977年春のセンバツ)でベスト4に入った時があったし、東は3つうえが(1978年夏の甲子園で)ベスト4。どっちがいいかなって考えていたんですけどね」。

 憧れの甲子園を意識して迷ったが、最終的にはコーチの勧めに従ったそうだ。「やっぱり『行け』と言われたら『はい』しか言えなかったかなと……」と八木氏は話したが、もしも、その時に岡山南を選択していたら、1学年上の川相昌弘氏(元巨人、中日内野手、現巨人ディフェンスチーフコーチ)や、中学時代からライバル関係にあった横谷氏と、その時からチームメートになって、野球人生の流れも変わっていたかもしれない。

「まぁ、僕が南に行っていたら横谷と一緒になったわけですけど、あの時、何かの噂で横谷が南に行くっていうのが何となく分かっていたっていうのもあったんですよね。で、僕が東に行くっていう噂も流れていたんで、(他の選手は)横谷がいる南に行くか、僕がいる東に行くか、ってなっていたみたいです。みんな、甲子園に行きたいと思ってね。まぁ、半々というか、結果的には、どっちもいい戦力が揃ったと思いますけどね」

岡山南に勝利も逃した甲子園「行けると思ったら…」

 こうして、東児中・八木氏と御南中・横谷氏のライバル関係は、高校に入っても岡山東商と岡山南で継続されていった。「本当にたまたま偶然、そうなっただけですけどね。中学からの延長戦上でね。ただ、高校で何回も対戦しているわけじゃなくて、2回か3回くらいなんですよ。特に南とは練習試合もやりませんでしたしね」と八木氏は振り返ったが、常に意識しながら戦ってきたのは間違いない。

 しかしながら、結果は……。1982年、高校2年夏の岡山大会準々決勝で、八木氏の岡山東商は、3年生エースの川相氏や、2年生スラッガーの横谷氏を擁する岡山南を5-3で撃破したこともあったが、高校3年間で甲子園には一度も行けなかった。「川相さんの時の岡山南に勝って、これで甲子園に行けると思ったら、決勝で関西に負けてしまったんでね……」。一方、岡山南はその間に1981年夏、1982年春、1983年夏と3度の甲子園出場を果たした。

 八木氏は苦笑しながら、こう話す。「僕は甲子園に行けなかったので(高校進学の際に岡山南ではなく、岡山東商を選んだ)みんなにコテンパンに言われました。『(甲子園に)行けると思って東に来たのに、行けなかったし、お前、あまり投げてないやないか』って。それは、まぁ申し訳なかったなと思っていますけどね」。実際、岡山東商での高校生活は思うようにいかないことも多かった。誤算の出来事が起きていた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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