故障の連鎖で狂った歯車 阪神主砲が失った“感覚”…1軍昇格を阻んだ指揮官の判断

オリックスの優勝とは対照的だった阪神の低迷…八木裕氏に相次いだ怪我
阪神での現役時代にレギュラーでも代打でも活躍した八木裕氏(野球評論家)だが、プロ10年目の1996年は1軍出場なしに終わった。春季キャンプで左膝を痛めて手術。リハビリを経て2軍で復帰したものの、1軍から声がかからず、さらには右肩まで痛めてしまったからだ。長打力だけでなく、強肩、俊足も売りだったのが、走れない、投げられないの最悪の状況。「もしかしたらクビもあるかもと思っていました」と明かした。
プロ6年目の1992年まで3年連続20本塁打以上をマークするなど長距離砲の道を歩んでいた八木氏にとって、最大の敵になったのは怪我だった。1993年は外野守備で腰を痛めて一時離脱するなど、調子を落として9本塁打。1994年は三塁の守備で左手靱帯を断裂して手術を受け、シーズン後半を棒に振り、6本塁打に終わった。“病み上がり”の1995年も本来の状態ではなく、71試合出場で5本塁打と数字をさらに落とした。
1995年は1月17日に阪神淡路大震災が発生。野球どころでない状況からスタートしたなか、神戸を本拠地とするオリックスがパ・リーグを制した。対照的に阪神は低迷し、7月に中村勝広監督が休養。藤田平2軍監督が1軍監督代行となったものの、最下位に沈んだ。「その年はチームの調子も悪かったし、僕も試合に出ていないことが多くてほとんど覚えていない。何か活躍した記憶が全くないというか……」と八木氏はむなしそうに話す。
怪我の影響については「あったかどうかもよくわからないんですよね」という。「でも数値はやっぱり落ちているし、前の感じではなかった。握力自体も変わって、握りの感じが違ったし……。だから、これも今考えればなんですけど、怪我したからどんどん落ちていくっていう形が食い止められなかったかな、という反省はありますね。怪我をプラスにして、もっと強靱になって帰ってこれたんじゃないかってね。その頃は怪我さえ治ればまた戻ってくるみたいに思っていたんでね」。

1軍出場ゼロの1996年…抱いた危機感「クビになるかも」
そう悔やむのも、さらに怪我が続いたからだろう。1996年は春季キャンプ中に左膝を痛めた。「スライディング練習で、左膝の半月板が……。高校(岡山県立岡山東商)の時に半月板を手術した時に半分、残していたんですが、それがまたひっかかってロックされて動けなくなったんです。で、それを全部取り除くことになった。内側は全部とっても大丈夫ということでね。2月の終わりに手術しました」。
その後、リハビリを経て2軍戦で復帰したが、1軍昇格の話は出なかったという。「6月くらいにはちゃんとプレーできるようになったんですけど、(このシーズンから正式に阪神監督となった)藤田さんの考えで“キャンプをやっていないヤツは使わない”とのことで……。まぁ、昔はよくあったことですけどね」。
悪いことは重なる。「ファームの試合に出ている時に、急に肩が痛くなって、10メートルくらいしか投げられなくなったんです。以前のように走れないし、投げられない、もうどうするって感じでした」と苦しい状況に陥った。
阪神は1996年も最下位。9月に藤田監督が休養し、柴田猛監督代行体制になったが、八木氏は結局、1軍出場なしでシーズンを終えた。「僕はその年から選手会長になっていたんですけど、ずっとファームで、決起集会もファームでしかやっていないという……」と苦笑しながらも、当時31歳で「もしかしたらクビになるかもしれないなというのはありました。自分で思っていました。やばいなってね」と、その時の胸の内も明かした。
そのオフ、1985年の日本一監督である吉田義男氏が監督に復帰し、八木氏は1997年に“代打稼業”で新境地を開く。「(監督が)吉田さんになったおかげで、またチャンスをいただけたというのは自分にとっては大きかったです」。クビを覚悟した崖っ縁からの復活劇。「代打の神様」と言われるほどの打棒を見せつけることになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)