泥船阪神のはずが「優勝するぞ」 新指揮官が猛烈ゲキ…拡声器が変えた“負け犬根性”

阪神・星野監督の“第一声”に衝撃「いきなり断言された」
2002年シーズンから阪神は星野仙一監督体制になった。当初は野村克也監督の“4年目”になる予定だったが、夫人の脱税問題で2001年12月に辞任。その年に中日監督を退任した星野氏が急きょ、引き継いだ。元阪神の八木裕氏(野球評論家)は、何よりも高知・安芸キャンプでの“闘将”の最初の言葉が思い出されるという。「いきなり“絶対優勝する”って言われましたからね」。4年連続最下位のチームに大いなる刺激が注入された。
阪神は吉田義男監督の下で1985年に日本一に輝いたが、その後は低迷が際立った。野村監督体制が終わる2001年までの間にAクラスに入ったのは1986年の3位と1992年の2位(巨人と同率)だけ。とりわけ1995年以降の7年間では、1997年の5位以外はすべて最下位というまさに暗黒の時代だった。そんな状況で、それまで現役でも監督としても中日一筋だった星野氏が、虎の指揮官のバトンを受けた。
「Aクラスを目指すとかおかしいと思わんか! やるからには優勝だろ。優勝しなかったら、2位も最下位も一緒や。目指すのはいつも優勝や。監督がそれを言わんで、どうするんや!」
これは、まだクライマックス・シリーズなんて考えられてもいない1986年オフ、39歳の若さで中日監督になった星野氏が高らかに発していた言葉だ。その年5位に終わった中日を率いて就任2年目の1988年にリーグ優勝へと導いたが、時を越えて2001年オフに阪神監督になった時も、考えは同じだった。
状況は1986年オフの中日の時よりも悪かった。阪神は1998年から2001年まで4年連続最下位。星野氏にしてみれば「優勝」を目指すのは当然のことだったが、最下位が指定席のようになっていた阪神ナインには衝撃的だった。八木氏もその1人で、「キャンプの第一声で『絶対優勝する』って言われたんですよ。いきなり断言されたので、みんなびっくりしていたし、こういうやり方もあるんだなと思いました」と強く印象に残ったそうだ。

プロ最後の一発が代打逆転満塁弾「慌ててバットを出したら…」
阪神にはびこる負け犬根性払拭へ、島野育夫ヘッドコーチはキャンプの練習中でも拡声器を使って「優勝するぞ」「優勝するぞ」「優勝するぞ」と連呼した。そんな意識改革によって、ナインも“その気”になっていった。2002年の阪神は開幕7連勝スタート。八木氏は「星野さんは、選手、スタッフ、関係者の気持ちをひとつにさせてくれる監督だと思いましたね。だから、雰囲気的にもみんなが開幕に向かってワーって行ったんです」と振り返った。
2002年の阪神は4位に終わったものの、チームのムードは明らかに変化した。八木氏は64試合出場で打率.284(67打数19安打)、3本塁打、24打点。代打中心の少ない出場機会ながら、前年(2001年)の打撃3部門の成績(打率.198、1本塁打、15打点)を上回った。6月下旬までは打率4割を超えた。「星野さんには冗談まじりで『お前はええのう。1回だけ打席に立って、外野フライ(犠牲フライ)打って終わりか。楽でええのお』とかよく言われましたよ」。
7月30日の横浜戦(甲子園)では、0-2の6回に右腕・横山道哉投手から代打逆転満塁本塁打を放った。「それまで投げていた福盛(和男=当時の登録名は一夫)が満塁にして、僕が代打に行ったら横山に代わった。僕、福盛が苦手だったんで、めっちゃラッキーだなと思いましたね。でも、さすがに満塁で初球から甘いところには来ないだろうと思っていたら、ど真ん中に来て、慌ててバットを出したらホームランになったんです」。
この華々しい一発が通算126号。八木氏のラスト本塁打になった。「次の年(2003年)も今のバンテリンドームでフェンスギリギリ。あとちょっとの当たりが2本くらいあったんですけどね、越えませんでした」と苦笑したが、その2003年に阪神は広島から金本知憲外野手をFAで獲得するなど補強もした上で、ぶっちぎりの優勝を果たした。「星野さんは本当に優勝させてくれましたからね」。星野氏は第1期中日政権と同様に、就任2年目で阪神を頂点に導いた。八木氏にとっても、それは感動の1年になる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)