「この言葉、嫌いです」 世の中と“一致しない価値観”の中で…イチローが得た「誇り」|ICHIRO:10,000分の対話 #2

2016年、世界記録となる日米通算4257安打を達成したイチロー【写真:アフロ】2016年、世界記録となる日米通算4257安打を達成したイチロー【写真:アフロ】

メジャーに刻まれたイチローの大記録が投げかける“問い”…成功とは

 イチローが“ヒットマン”として“世界一”になってから10年が経った。

 今から10年前の2016年、イチローはプロ25年目、メジャー16年目にして4257本目のヒットを放った。この一打で、日米通算の安打数がピート・ローズのMLB記録の数字を上回り、“世界一のヒット・キング”となったのである。

 正直、イチローがメジャーへ挑んだ2001年には、こんな瞬間が来るなんて想像もしなかった。当時、出てきた古(いにしえ)の名前と言えば、イチローがメジャー1年目に242安打を打って塗り替えたMLBのルーキー最多安打(233安打)記録保持者、シューレス・ジョー・ジャクソンであり、257安打のシーズン最多安打記録を持っていたジョージ・シスラーであり、8年連続でシーズン200安打を記録したウィリー・キーラーだった。ほとんどの大記録は瞬間最大風速の力を借りれば達成可能なシーズン記録で、時間のかかる通算記録の類にはまったく目が向かなかったからだ。

 そりゃ、そうだ。

 イチローは日本のプロ野球で9年もプレーしていたのである。MLBのキャリアで言うなら9年もロスして、そこからメジャーでプレーし始めた選手に、通算記録で楽しませてもらえるなどとは想像もしない。メジャー3000安打だって、思い浮かべたこともなかった。記憶を辿るとイチローを巡ってピート・ローズの名前が最初に出たのは、2004年、イチローが通算4度目の月間50安打を記録してローズに並んだときのことだ。イチローが最後まで届かなかったテッド・ウイリアムズのシーズン最高打率.406や、ジョー・ディマジオの56試合連続安打よりも、ピート・ローズの4256安打は遥かに遠く感じていた。

 ただ、届くことのなかったディマジオの56試合連続安打(自身のMLB最多は27試合)についてイチローに訊いたとき、彼はこう言って口を尖らせていた。

マーリンズ時代の2016年、メジャー最多安打記録を超える日米通算4257安打を達成したイチロー【写真:アフロ】マーリンズ時代の2016年、メジャー最多安打記録を超える日米通算4257安打を達成したイチロー【写真:アフロ】

「それ、矛盾してますよ。だって、そうでしょう。たとえば5打数1安打が57試合続いたとして、打率が2割の57試合連続安打だったら、それって価値があるんでしょうか」

 ディマジオが持つ“56”は、米国の野球好きにとっては、もっとも大事な、不滅であってほしい記録である。それはディマジオが米国の野球にとってあまりにも特別な存在だからだ。ヤンキース一筋のディマジオは、芸術的なバッティング、華麗な守備、グラウンドでの真摯な立ち居振る舞いもあわせて、野球選手の鏡と言われた“アメリカンヒーロー”だった。だからなのか、イチローがどれほどヒットを積み重ねようとも、「ディマジオの56試合連続安打を抜くのは無理だろう」という、米国人の上から目線を感じたことは一度や二度ではなかった。

 もちろん、イチローはディマジオの記録を軽んじているのではない。56試合連続安打を達成した1941年のシーズン、ディマジオは.357という高打率を残し、56試合の間に91本ものヒットを放っている。ところが記録というところに目を奪われると、イチローに期待するのは『56試合続けてヒットを打つ』というところだけになってしまう。そんな表面的な物言いに対してイチローは、だったら打率2割でもいいのか、と言いたくなったのだと思う。

 確かに、記録というものはプレーの本質と矛盾することがある。野球はプレーを数字に置き換えることで新たな楽しみを提供してくれるスポーツなのだが、その一方で、数字に置き換えることによってプレーの“ほんとう”を見失ってしまうこともあるのだ。たとえばイチローはインタビューの中でこんな発言をしている。

「好きな言葉といわれると、すぐには思い浮かびません。ただ、嫌いな言葉ならありますよ。それは、『成功』。この言葉、嫌いです(笑)」

 メジャー1年目、イチローが打ったヒットは242本。これはルーキーとしてのメジャー新記録だった。その翌年に打った208本のヒットはリーグ2位だったが、ヒットが減った分、世の中からは「苦しんだ」という印象で語られた。3年目は212本のヒットを放つも、8月以降は数字を落としたことで「失速した」と言われてしまう。

 そして4年目、イチローは、ジョージ・シスラーの持っていた257本というシーズン最多安打記録を越える262本のヒットを放った。その年、イチローのヒットがもし243本だったら、「1年目を越えた」と称賛されたはずなのに、それが256本だったら「シスラーに届かなかった」とネガティブに受け止められていたに違いない。思えばイチローは、5年連続200安打を記録したシーズンを終えたとき、こう言っていた。

「日本へ帰ったとき、たまたま一緒になった人に『今年は残念でしたね』って言われちゃって……あれっ、これはひょっとしてオレのことかなと思って、やっぱり残念な年だったのかと改めて思い知らされました(笑)」

イチローを世界一に導いた“価値観”「言葉の感覚に人とのズレはあります」

 その人が言う「残念な」メジャー5年目、イチローは206本のヒットを打っている。しかし、ほとんどの日本人にとっては、84年ぶりに更新したイチローの262本というシーズン最多安打の数字が『成功』のスタンダードになってしまっていて、イチローのヒット数は262本から206本に目減りした『失敗』に見えていたのだろう。しかし、シーズンの記録というものは、いったんゼロにリセットされてから、ふたたび積み上げなければならない数字である。206本のヒットを放って、5年連続で200安打をクリアしたというのに、世の中からはそれに見合うだけの評価が得られない。

 己の価値観と世の中の価値観が一致しない――イチローはずっとそんな想いを抱えながら野球をやってきた。自分の中で考える『成功』の物差しと、世の中が考える『成功』の物差しの尺度は、明らかに別物だった。だからこそ世の中の見方に振り回されてはいけないと、イチローは自分を律してきた。

「成功にもいろいろあると思うんですけど、自分の中で立てた目標を成し遂げた、そのことを成功だというのならわかります。でも、人が言う成功を追いかけ始めたら、何が成功か、わからなくなってしまうでしょう。だから曖昧で、僕にとってはイヤな言葉です。成功という言葉の感覚に人とのズレはありますよ。やっている本人とは違います。人にはサッとやっているように見えていることを、本当にサッとやっている感覚だったら、僕はここにいないんじゃないですか」

ヤンキース時代の2013年、日米通算4000安打を達成【写真:アフロ】ヤンキース時代の2013年、日米通算4000安打を達成【写真:アフロ】

 人にはイチローは簡単にヒットを打つように見えていたとしても、イチローにはヒットを簡単に打てる感覚など微塵もない。イチローが日米通算4000安打を達成したとき、8000回以上のアウトになった打席と向き合い、悔しい思いをしてきたことを「誇り」だと言った。誰も目を向けることのない凡打と向き合い、アウトを山のように積み重ねてきたからこそ、ヒットを打てる。アウトは『失敗』で、ヒットは『成功』――そんな表面的な価値観で結果を捉えていたら、イチローは「ここにいない」……つまりメジャーでこれだけの記録を積み重ねることなどできなかったと、そう言うのである。そして、彼はこう続けた。

「記憶に残っているのはうまくいかなかったこと。そういうストレスを抱えながら、瞬間的な喜びが訪れて、それが儚く消えていく。いっぱい失敗を重ねて、たまにうまくいっての繰り返しでした。野球とは何かということを少しでも知る瞬間というのはうまくいかなかった時間とどう対峙してきたかだと思うんです。しんどい作業ですけど、それを続けてきたからこそ、僕はとんでもないところに辿り着けたのかなと思っています」

(石田雄太 / Yuta Ishida)

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