甲子園決定で「部員急募」も“全員スルー” 12人で大会へ…「誰も入らなかった」裏事情

高知・中村高を1977年選抜準Vに導いた山沖之彦氏
NPB通算112勝を挙げた山沖之彦氏(元阪急・オリックス、阪神)は1976年、高知県立中村高2年秋にエースとして高知大会を制覇。四国大会で準優勝を飾り、同校を初めて甲子園出場に導いた。1977年選抜大会では部員数が12人の「二十四の瞳」と大きな話題にもなったが、出場内定後に「ベンチ入り枠が余っている」と部員を募集しても誰も入らなかった結果でもあったという。「練習がきついって、みんな知っていたからでしょうね」と苦笑しながら話した。
高校2年秋の山沖氏は高知大会を抜群の投球で勝ち上がった。準決勝は伊野商を3-0で完封。決勝の安芸戦も完投し、11-3で下した。四国大会も初戦の高松工芸(香川2位)に1-0、準決勝は新居浜商(愛媛1位)に3-2で勝利。決勝は丸亀商(香川1位)に3-5で敗れたものの、準優勝で翌年春の選抜出場を“内定”させた。「準決勝の新居浜商戦が大一番だったですね。(高知2位の)安芸が、確かどこかの1位に勝ってベスト4に入っていたんでね」。
安芸は初戦で川端順投手(元広島)を擁する徳島1位の鳴門を延長18回1-1の引き分け再試合の末、6-5で撃破して準決勝に駒を進めていた。1977年選抜に四国からは3校が出場。「もし(ベスト4で中村が)新居浜に負けたら、向こう(安芸)の方が高知県から(選抜に)出るぞって言っていたんです」。そんな新居浜商戦は、中村が3回に3点を先行。山沖氏は5回に2点を失い、1点差に迫られたものの、そのまま逃げ切って勝利を手にした。
中村は春夏を通じて甲子園初出場となった。ただし、山沖氏は「別に甲子園に行きたいと思って野球をやっていなかったんでね」と、それほどの喜びはなかったという。「甲子園っていうイメージは江川(卓)さん(元巨人)が(作新学院エースで1973年春夏に)出た時。(地区大会などで)ノーヒットノーランとか完全試合とかようけしてきたでしょ。どんなピッチャーなんやろうと思って、あの時、1イニングか2イニング、テレビで見たくらいでした」と、ほとんど甲子園に関心がなかったそうだ。
増えなかった部員「練習とかを見て、誰も入ろうとしなかった」
部員数が12人。映画化などもされた香川・小豆島が舞台の小説のタイトルにちなんで『二十四の瞳』と話題になったが、「甲子園に出るとなって、小豆島がある四国代表で人数も少ないってことでマスコミがポーンと取り上げてくれたけど、僕は別に何とも思っていなかった。あれが高知県の話だったら別でしょうけど、香川県の話でしょ。それに、そんな注目されるようなチームじゃないよって思っていましたから」と淡々と話した。
さらには「僕ら(の代)が8人、ひとつ下は4人しかいなかったのは(厳しい)練習とかを見て、誰も(野球部に)入ろうとしなかったからなんですよ。あの時、甲子園が決まって、まだベンチ入りできる枠があるってことで、部員を募集したんですけど、それでも誰も入らなかったんです」と明かす。その結果、12人のまま選抜に挑むことになった。それが『二十四の瞳』につながったわけだ。
「第49回選抜高等学校野球大会」は1977年3月27日に甲子園で開幕した。中村の初陣は開会式直後の第1試合・戸畑(福岡)戦だった。「入場行進が始まる前、アルプスの下で待たされるじゃないですか。僕は、開幕戦だったから”はよう、せいや”ってイライラしていました。で、一塁側からグラウンドに入ったんですけど、アルプスがウチの高校だったので“おお”って。それでちょっと(気持ちが)ほぐれた感じになった。ウチが三塁側だったら、また違ったかもしれなかったですね」。
試合は3-0で勝利。山沖氏は被安打2、奪三振11の完封劇で“甲子園デビュー”を果たした。「初回の先頭バッターがフルカウントからアウトコース高めのボール球を振ってくれた。あれも大きかった。僕が(1995年の現役引退後に)三宮でスナックをやっていた時、(当時の)戸畑高のメンバーが飲みに来てくれて『あの1球を見逃していたら俺の勝ちやったな』と言われて『お前もそう思うか。俺もそう思うぞ』って言いましたよ(笑)」。この白星をきっかけに、“二十四の瞳旋風”が始まった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)