長男誕生翌日に衝撃の通告 大洋ドラ1が忘れられないオレンジジュースの味

大洋のレギュラー三塁手として活躍した銚子利夫氏【写真提供:横浜DeNAベイスターズ】
大洋のレギュラー三塁手として活躍した銚子利夫氏【写真提供:横浜DeNAベイスターズ】

現・法大助監督の銚子利夫氏、兄が果たせなかった夢をかなえた“銚子高校の銚子君”

 川崎球場を本拠地とした頃の大洋ホエールズ(1955~77年)および、横浜スタジアム移転後の横浜大洋ホエールズ(78~92年)を懐かしむファンは多い。いずれも横浜DeNAベイスターズの前身にあたるが、現在とはまた一味違う魅力を放っていた“鯨軍団”の戦士たちに、スポットを当てる連載企画。今回は、古葉竹識監督時代にレギュラー三塁手として活躍した銚子利夫さん(現法政大学野球部助監督)が登場。劇的な野球人生を語る。

 銚子さんの名が全国の野球ファンに認知されたのは、千葉・銚子市立銚子高3年の夏。4番で投手で主将、しかも名字と校名が同じであることから、『銚子高校の銚子君』と話題になった。

 千葉県大会では、準々決勝の千葉商戦で延長16回、180球を超える熱投の末、自らサヨナラ3ランを放ち劇的勝利。そのまま全国大会の舞台へ駆け上がったが、甲子園では1回戦で高知高と対戦。打球をワンバウンドで顔に受け、口の中を切り救急搬送されてしまう。チームはこの時点でリードしていたが、降板後に逆転され3-7で敗退した。それでも「市立銚子にとって初の甲子園出場でしたし、僕も甲子園に来られただけで満足でした」と振り返る。

 この年のドラフト会議で近鉄から4位指名を受けたものの、入団拒否。法大に進学した。「千葉県大会の準々決勝で肩を壊していましたし、そもそもプロは全く頭になかった。野球は高校までで終わりにして、安定した公務員になり、市役所で働きたいと考えていました。しかし、当時の阿玉新一監督が『プロに指名されたほどの選手に、野球をやめさせるわけにはいかない』とおっしゃって、いろいろつてをたどってくださった結果、決まったのが法政大学でした」

 銚子さんには4歳上の兄、洋二さんがいる。同じく市立銚子高のエースとして、2年生の時に千葉県大会決勝に進出したが、この年全国制覇を遂げることになる銚子商に0-2と惜敗。3年生の時も、準決勝で君津高に敗れ甲子園に届かなかった。この年も、千葉を制した習志野が甲子園でも優勝しており、当時の千葉のレベルの高さがうかがえる。洋二さんは早大に進学したが、故障で4年間公式戦には出場できなかった。

「僕はそれまでずっと兄貴と比較されていました。同じ市立銚子といっても、兄貴は普通科で、もし勉強に専念していれば東大に行けたんじゃないかといわれたほどの秀才。僕は工業化学科で、勉強は苦手でした。その兄貴があと一歩届かなかった甲子園に、なんとしても出たかったですし、兄貴の分まで東京六大学で活躍したいと考えました」と銚子さん。

 法大2年の時に内野手転向。3年時には東京六大学の春季リーグ戦で打率.400をマークし、首位打者を獲得した。そして83年のドラフト会議で横浜大洋から1位指名され、プロの世界に飛び込んだのだった。

三塁のレギュラーを獲得も、91年に広島へ移籍

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