今季引退の偉人の秘話 前田智徳が天才と呼ばれた理由

「努力に勝る天才なし」

 話は今から10年以上前に遡る。Bクラスに低迷する広島がホームで、松井秀喜を擁して首位をひた走る巨人にあっけなく惨敗した。試合終了後、喜びに浸る巨人ナインを冷やかな眼差しで見つめていたのが、広島の主軸、前田智徳だった。

 その前田がベンチ裏に姿を消して1時間ほど経過したころ。広島市民球場はグラウンド整備が終わり、照明も消され、試合中の喧騒が嘘のような静けさに包まれていた。その時、ネット裏の記者席から漏れる僅かな明かりが、グラウンド上に大柄なシルエットを映し出した。前田だった。

 男はバットも持たず左のバッターボックスに立つと、左翼から右翼をぐるりと見渡した。そして暗闇のなかで、おもむろにスイングを始めた。イメージトレーニングなのか、試合の反省なのかは定かではない。約10分間、その「手ぶらの素振り」は続いた。その後、前田は再びグラウンドを見渡すと、最後に深々と一礼してベンチ裏に引き揚げていった。その次の日も、ほかの選手が続々と帰路に就くなかで、前田は一人、暗闇のバッターボックスに立った。

 「努力に勝る天才なし」と言われる。ブルワーズの青木宣親の、丸太のような上腕二頭筋は一切、筋力トレーニングをせずに、素振りだけで作られた。ヤンキースのアレックス・ロドリゲスは今でこそ薬物問題の渦中にいるものの、試合前、まるでシャワーを浴びたかのような汗をかきながら、室内練習場でトレーニングに打ち込んでいた。普段、人々の目の届かないところで、「天才」は作られる。今季、ユニフォームを脱いだ前田にとって、あの「手ぶらの素振り」が、その才能を磨き上げる一つの儀式だったに違いない。

【了】

フルカウント編集部●文 text by Full-Count

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