高卒ドラ1の新人投手がつける背番号「1」は大成するか
背番号「1」をつけてマウンドに立つ難しさ
背番号「1」はいわばチームの顔だ。前田や内川、陽岱鋼らは入団当初、違う番号を背負い、実力をつけてから球団側に「1」の打診を受けた。初めから1番をつけるということは、同時に大きなプレッシャーも背負うことになる。その中で埋もれていった選手は何人もいる。
過去に1966年の近鉄・鈴木啓示氏、1979年の広島・大久保美智男氏も高卒新人ながら1番をつけたが、ドラフト2位の選手。日本プロ野球ドラフト制度以降、高卒ドラ1投手ですぐに背番号「1」をつけたのは1980年のロッテ・愛甲猛氏、大嶺についで3人目となる。
大嶺は2006年のドラフト会議でソフトバンクの1位単独指名が有力視されていたが、当時のバレンタイン監督がべた惚れしたことでロッテも急遽、指名。ホークスとの抽選になり、ロッテが交渉権を手にした。突然の横やりに、一時は入団を拒否するかと思われたほど、大嶺サイドは強硬な姿勢を見せていたが、球団側は出身地の沖縄・石垣市にロッテキャンプをすることを売りにして、獲得に熱意を見せた。
さらに本人のハートをつかむために、高校時代から慣れ親しんだ背番号「1」を提示し、何とか契約が実現。だが、入団2年目にプロ初勝利をマークするなど2勝2敗、3年目に5勝6敗という成績を残した後、背番号は「11」に変わった。結局、「1」を自分の番号にすることはできなかった。
愛甲氏は横浜高校から入団し、プロ1年目から1軍デビューを果たした。しかし3年間で61登板0勝2敗。3年目の1981年から野手に転向した。その後、打者としてロッテの主力となったが、投手としては結果を出すことはできなかった。
過去の2人を振り返ってみると、背番号「1」をつけてマウンドに立つことの難しさが分かる。高卒には、荷が重い番号なのである。だが今回、松井は自らの希望で「1」を選んだ。自分に自信がなければできない決断だ。決してハードルは低くはないが、大成する可能性もある。夏の甲子園で22奪三振と記録を塗り替えたように、プロ野球の球史に新たな記録と記憶を残し、背番号のようにNO1投手となることに期待したい。
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フルカウント編集部●文 text by Full-Count