“レジェンド”山本昌、独占インタビュー(下)「自分に投球術なんてない」

「日本の200勝投手だったら、アメリカに早く行ったら100勝はしたと思う」

――プロ野球人生で悔いが残ってることはありますか?

「悔いはいっぱりありますね。もっとうまく野球を出来たのにな、と思います。もっと成績残せたのに、もっとチームを勝たせられたのに、と。失敗したことが全部悔いなんですけどね。(引退会見で)なぜ『後悔はしてない』と言ったかというと、その時その時は、自分は一生懸命やっていたはずだと思うからです。ただ、あの時こうやっていればな、という悔いはいっぱいある。最後にもう1勝できなかったことは大きな悔いですし、それも含めてたくさんあります。

 でも、出来なかったけど、その時は自分は一生懸命やっていたから、それは仕方ないことなんだ、ということです。あの時に今の実力、理論があればなと。今の考え方で20歳くらいにやっていれば、もっと早く出られたし、(93、94年に)連続最多勝も取ってますけど、20勝できたかなとか。もったいないなと。今が野球選手の技術としてはピークと思っているだけに、もうちょっと若い時にこういうことに気づかなかったかなと。そういうことは思います」

――これだけ日本からメジャーに選手が移籍する時代になりました。山本昌さんは入団直後のドジャースへの留学が大きな経験になったと思いますが、メジャーで投げたかったという思いはありますか?

「それはないですね。僕の夢は、小さい頃からプロ野球選手ですから。アメリカに行っていた時は、(中日で)一軍に上がるのが夢のような選手で、日本でこんなに花咲くなんて思っていませんでした。日本でまだ0勝でしたからね。あの時に『アメリカで誘われたよ』と言われても、ピンと来ないですよね。日本で投げたかったですし、ドラゴンズに恩返ししたかったというのがありましたから。

 逆に誇れるのは、ドラゴンズ一筋で32年間、34番を背負えた。そういうことが一番の誇りですよね。アメリカに行きたかったな、投げたかったな、とは全く思わないですね。どうせ無理だったと思っているので。

 でも、日本の200勝投手だったら、アメリカに早く行ったら100勝はしたと思いますよ。僕はそう思ってます。そんなに日本とアメリカのレベルの差というのは、当時に関しては大きく隔たりはないと思いましたよ。1つ1つ取ったら、日本のいいピッチャーがメジャーに行ったら通用するというのは、もう証明されてますよね。チャンスはあったかもしれませんけど、惜しいとか、もったいないとかは思ってないです。やりたかったとも思ってないです」

――当時、米国のマイナーリーグ(1A)の選手と対戦する中で手応えはありましたか?

「野球とベースボールは違うのかと思いましたね。その時にスクリューボールを覚えましたけど、こんなに投げられるとは思ってませんでしたので。アメリカの四軍くらいには通用するけど、日本では無理だろうなと思ってました。(日本に帰って)野球になったら昔と同じで1つも勝てない敗戦処理が精一杯のピッチャーなのかな、という気持ちはありましたね。

 でも、(米国で)それなりの自信はつけていたので『よし、思い切ってやってやる』とは思ってました。(日本で)通用して勝ち始めてからは『嘘? 嘘?』という感じですよね。アメリカではサミー・ソーサとも対戦してますし、探せば有名な選手はもっといたかもしれませんね。今、データを引っ張り出せば。もうほぼ引退してるでしょうけど(笑)」

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