史上2人目の10年連続50試合登板 日ハム宮西、“鉄腕”誕生秘話(前編)

厚沢コーチ「初日のブルペンを見て、10年中継ぎをやっていけると確信しました」

「その時には何も考えてなかったですけど、後から振り返ると結果的にあの1試合が分岐点になりましたね」と宮西は笑う。当時、50試合登板は目標ではなかった。もし言い訳をつくって投げていなければ、1年目の50試合登板はなかったわけだ。

 そうして始まった10年のリリーフ人生。ここで年度別成績を振り返っておこう。

年  試合 勝敗ホールド 防御率
08年 50試合 2勝4敗8ホールド 防4.37
09年 58試合 7勝2敗13ホールド 防2.89
10年 61試合 2勝1敗23ホールド 防1.70
11年 61試合 1勝2敗14ホールド 防2.21
12年 66試合 2勝2敗39ホールド 防2.25
13年 57試合 3勝1敗30ホールド 防1.74
14年 62試合 1勝5敗41ホールド 防2.16
15年 50試合 3勝3敗25ホールド 防2.70
16年 58試合 3勝1敗39ホールド 防1.52 
17年 50試合 4勝5敗24ホールド 防3.38

 07年の大学生・社会人ドラフト3巡目で入団した宮西は、1年目のキャンプ初日にリリーフとしての資質を認められ、リリーフとして育成された。当時投手コーチだった厚沢コーチは言う。

「初日のブルペンを見て、10年中継ぎをやっていけると確信しました。投げ方、ボールの軌道、左バッターに対しての威圧感…。当時パ・リーグにはすごい左バッターがたくさんいました。2死二、三塁や2死満塁で左バッター1人を確実にアウトに取れる左なら10年食べていける。うちには東京時代からずっと左キラーがいなかったんですよ。自分も含めてみんな中途半端で。チームとして、左キラーをつくらないといけない状況だったんです」

転機はフォーム改良「吉井さんと厚沢さん、入った時のコーチが2人だったのは大きかった」

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY