「自分の人生が変わる」―東北大からプロ希望、工学部生が待つ運命のドラフト
大学時代の練習環境は? 貴重な経験となった「自分で考えた練習」
――東北大での4年間、どうでしたか。
「私は仙台二高の出身なのですが、仙台一高と定期戦があるんです(“杜の都の早慶戦”と呼ばれるが、本当の早慶戦よりも起源は古い)。それは二高生、一高生にとっては甲子園よりも大きい大会なんです。3年生の時、ビハインドの場面でチャンスを迎え、私に打席が回ってきました。しかし、中途半端なスイングでサードファウルフライ。それが一番の後悔として残っていて、中途半端で弱気なのが嫌だなという思いがありました。大学はリーグの舞台でもいい結果を残すことができましたし、最終戦も負けてしまったのですが、最後とその前の打席で自分のスイングができたなと思っています。最後から2番目の打席はツーベース。最後の打席はライトフライだったんですけど、自分のスイングができて良かったなと。チームの成績に関しては悔しいんですけど、大学4年間としては後悔はないです」
――中でも2年秋が自信になった。
「そのシーズンが4年間で最も打率がよく、ヒット数も一番、多い。それがすごく自信になりました。東北大の平日の練習は朝のみ。午後は自主練なので1、2年生の頃、午後からよくグラウンドに行って練習していました。自分で考えた練習ができ、その成果が出たかなと思います」
――週何度くらい、午後から練習できたんですか。
「5日のうち、3日くらいはできました。1、2限、または3限まで講義を受けて、グラウンドに行っていました。3、4年は専門的な勉強が始まり、研究とかが忙しくなり、午後から行ける時間が減りました。それでも、自分の思い通りの練習ができたら、この環境でもいいのかなと思います。私には合っていた。自分で考えてやれる環境なので、何時間もやらされる練習より、自分のためになりますし、練習も楽しかったですね」
――野球を始めたのはいつから、どんなきっかけですか。
「台原小の3年からです。父が野球好きでテレビを観ていて、興味を持ったのがきっかけです。5歳くらいの時から、いろんなものに将来はプロ野球選手になりたいと書いていたので、テレビ中継を見て野球を好きになり、父と遊びでやっていました。姉が小学生の時にドッヂボールをしていて、私も最初はドッヂボールをやろうと思ったのですが、見学に行ったら何か違うなと感じました。そのあと、少年野球の見学に行ったら、これだ、と思って野球チームに入りました。台原中では軟式野球部に所属し、キャプテンをやっていましたが、そんなに目立つ選手ではなかったと思います。体も小さかったですし」
――今は185センチ。
「中学時代は160センチ台でした。高校3年間と浪人の1年間で伸びました。その変化も大きかった気がします」
――仙台二高ではどうでしたか。
「中学の頃から東北大の工学部に入りたいとは思っていました。二高の2つ上に幼い頃からの友達がいて、野球も勉強も頑張っていると聞いており、選びました。勉強と野球の記憶しかないですね。成績は中の上だったと思います。野球はやらされているという感じでした。最後の夏は2回戦で泉館山に逆転サヨナラ負け。そこで区切りというか、もういいかなという感じはしていました」
――受験は?
「東北大1本でした。案の定、ダメで、もう1年、勉強しようと思いました」