運命に導かれた「幕張の安打製造機」が挑む、元祖「安打製造機」の記録更新

打者としての一歩目を踏み出せた「二塁打」

 初めての試合出場はすぐに訪れる。1994年7月23日、土曜日。ロッテ浦和球場でのイースタン・リーグ、横浜ベイスターズ戦(現横浜DeNA)。それが初の「公式戦出場」となった。投手から転向したばかりの細身の野手の出番はなかなか訪れない。試合が終わろうとしたら9回1死一塁。古川慎一外野手に代わる代打を告げられた。

 マウンドには友利結投手。必死に振った。ボールに食らいついたが、結果は浅いレフトフライに終わる。こうして野手としてのデビュー戦は終わった。その後は、一から鍛えるという首脳陣の判断のもと、10月まで出場した試合は5試合の6打席のみ。ヒットは生まれず、打点は併殺崩れの1打点のみ。出塁も四球が一つ。投手から転向したばかり。プロ野球は2軍とはいえ、甘くはなかった。

「とにかく練習をした。させられたというのが正しいけどね。あの時は本当にバットを振った。これでダメだったら終わり。だったら悔いが残らないようにとね」

 本人が振り返るように練習の日々が始まった。チーム全体練習前に朝練の特打。試合後も特守に特打。寮に戻ってもバットを振った。遠征先での試合を終えヘトヘトに疲れて寮に戻ってきた際も室内で特打を命じられた。野手としての遅れは歴然。少しでも一人前になるべく、とにかくバットを振って、ノックを受けた。

 1994年のイースタン・リーグ最終戦となった10月8日。忘れもしないベイスターズ球場での横浜ベイスターズ戦。マウンドには初打席の対戦と同じく、友利がいた。

 ストレートに振り遅れないように、早めにバットを始動させた。打球は右中間を真っ二つに抜けていった。二塁打だった。

 ここまで出場した2152試合を含めたさまざまな試合で、いろいろな試合が思い出に残っている。2005年のプレーオフ第2ステージ、福岡での福岡ソフトバンク戦。2010年のクライマックスシリーズファーストステージ、西武ドームでの埼玉西武戦。華やかな一打も確かに記憶に刻まれているが、この日のまばらな観衆の中で打った一本が忘れられない。やれるという確信を持てるほどの一打ではない。でも、確かに何か、打者としての一歩目を踏み出せた気がした。そんなヒットだった。

ロッテの指名は「運命だったとしか言いようがない」

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