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運命のドラフト1位指名から成功へ 篠塚和典氏を支えた長嶋監督の言葉

読売巨人軍の長い歴史の中で、屈指の好打者として絶大な人気を誇った篠塚和典氏(1992年途中までの登録名は篠塚利夫)。現役時代には高い打撃技術で安打を量産。抜群の野球センスを誇り、二塁の華麗な守備でも球場を沸かせた。その名前はファンの脳裏に深く刻まれている。

「何とか恩返しを―」ドラフト1位指名を“強行”した長嶋監督への思い

 同時に、体力作りにも重点を置いた。巨人の練習はキツいという印象から不安はあったものの、体力そのものには決して自信がなかったわけではない。ただ、湿性肋膜炎を患ったこともあり、プロでのシーズンを乗り切れるかとなると、課題を感じていた。

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「やっぱり細かったし、体力をつけていかないといけない。体力的には自信はあったんですよ。ただ、体調を崩していたのもあったし、アマチュアとは違ってシーズンは長いし、1年間を戦う体力をつけないといけない。そういう感じで1、2、3年目と過ごして、ファームの試合をやりながら1軍の試合に行ったりして、3、4年目くらいからは何とか行けそうだなというような時に(1979年の)伊東キャンプがあったんですよ。そこであれだけ練習したということで自分の中でも自信がついて。体力的にも強化できたし、1980年シーズンが終わったところで『よし来年!』となりました」

 ところが、ここで思わぬ事態となる。1980年限りで長嶋監督が退任。これに最も心を痛めた一人が篠塚氏だった。そして、プロでの成功をさらに強く誓うことになる。

「1つ果たせなかったというか……。実は、僕はジャイアンツに入って半年くらいして、ドラフトの話を聞いたんですよ。長嶋さん1人が『俺が責任を取るから、篠塚を獲る』と言っていたと。他の人はみんな反対していたらしい。だから、それだけがものすごく心残りというか、一緒にやっている間に恩返しできなかった。恥をかかせちゃったな、というのがあって。世代が変わっても、監督が変わっても、長嶋監督に教わってきて、何とか恩返しがしたというのがずっと頭にあった」

 1981年、篠塚氏は自信を持ってシーズンに臨んだが、開幕当初はセカンドのポジションを新人の原辰徳氏に奪われる形に。のちに中畑氏が負傷し、原氏がサードに回ったことで、篠塚氏がセカンドのレギュラーに戻る形になった。中畑氏が復帰後はファーストに入り、その後の巨人の“形”ができあがった年でもあったが、開幕直後にポジションを奪われた篠塚氏に対して、長嶋監督からすぐに連絡が来たという。

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