「僕は補欠だった」―愛工大名電時代にサイド転向、西武十亀の「必要な3年間」

西武・十亀剣【写真:荒川祐史】
西武・十亀剣【写真:荒川祐史】

イチロー、工藤を輩出した愛知の名門・愛工大名電

 今夏で100回大会を迎える全国高校野球選手権記念大会。長い歴史の中で数々の名勝負、ドラマが生まれてきた。今回Full-CountではNPBの選手、コーチたちに甲子園を目指した高校時代を振り返ってもらった。今回は、工藤公康投手(現ソフトバンク監督)やイチロー選手(現マリナーズ会長付特別補佐)など、数多くの名選手をプロ野球に排出した愛工大名電の十亀剣投手(西武)だ。

 2005年、3年春で迎えた第77回選抜大会で優勝。春夏連覇を目指して挑んだ第87回全国大会は、1回戦で長崎・清峰に延長13回で敗れた。そのマウンドにいたのが、2番手として7回から登板していた十亀だった。

 甲子園のマウンドには立ったものの、与えられた背番号は「1」ではなかった。

「僕は補欠だったので、エースとは扱いが違った。高校の練習って全員が同じ練習ができるわけではないんですよね。結局、甲子園でも投げましたけど。なんだろう…そんなに楽しい思い出はなかったですね」と苦笑いを浮かべた。しかし、この「補欠」で過ごした3年間があったからこそ、今の自分があるのだという。

 小中学校時代は投手ではなかったが、レギュラーとして常に試合に出場していた。だが、野球の名門校に入って投手となり、当たり前のように出場していた試合に出られなくなった。それでも日々の練習は待ってはくれない。時には「何でこんなことをするんだろう」と思い悩んだ時期もあった。「すごく苦しい3年間」だったと振り返る。

 しかし、補欠になったからこそ自分の中に「気づき」が生まれた。「エースになれなかったのはなぜか。なるにはどうすればいいのか。エースと自分では何が違うのか。他の投手と比べて何が足りなくて、何が必要なのか」と、常に考えるようになったという。

「自分に足りないものは? 自分の武器は?」

 10代半ばの野球少年は自問自答を繰り返し、自分と他者と比較し、ひたすら自分と向き合い続けることで、エースという「ナンバー1」を目指すのではなく、エースとは別の「オンリー1」を模索する道を選択する。

当時のエースは同じタイプの投手、監督から打診されたのは…

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