日産休部、パナソニック退社…都市対抗野球に戻ってきたJR東海監督の思い

パナソニックでは優勝に届かず「契約を更新しないと言われ、潔く会社を辞めました」

 休部が決定した2009年の都市対抗では準決勝進出、日本選手権でも準決勝に進出したが、それでも決定が取り消されることはなかった。

「社内には野球を続けたい人はたくさんいたし、続けられると思っていました。それでも、打ち切られたということを認め、割り切るしかありませんでした」

 休部が決まってから、久保氏は寝る間も惜しんで選手たちの移籍先を探した。その結果、移籍を希望していた選手たちは、新天地で新たなスタートを切ることができた。

「選手たちには『一人前になれ』と言って指導してきました。それにチャレンジしてくれた選手たちに継続できる場所を与えたかった。その一心でした」

 自身は日産自動車を退社し、2010年5月にパナソニック野球部へ移籍。翌2011年から監督を務め、3年連続都市対抗出場、2012年、2013年は準々決勝進出を果たした。しかし優勝には届かず、同年、契約終了と共にパナソニックを退社した。

「それまでお世話になった日産を辞めることは、本当に悩みました。それでも、野球を続けたかった。パナソニックでは1年ごとの契約でしたが、3年目に契約を更新しないと言われ、潔く会社を辞めました。日産から動いた時点で覚悟して行っています。日産の休部に比べれば自分の決断だけで済む。その分、気は楽でした」

 その後はさまざまな大学、高校、中学校へ自ら出向き、子供たちに野球の指導を続けた。

「野球を継続していれば何らかの形で違ったものが生まれてくると思っていました。自分の大学の先輩が、大阪の大学で監督をやっていたので『時間ができたからお邪魔していいですか』とお願いして指導に行きました。大学の練習は夜なので、夕方は兵庫の高校に行ったり、中学にも行きました。掛け持ちでいろいろな学校を回りました」

「社会人野球は大人の世界、自己責任」

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