伝説の「10・19」を振り返る 「失礼のないように」出場した4番打者【前編】

熾烈な首位打者争いをしていた高沢

 現在のようなクライマックスシリーズがない時代。選手のモチベーションを維持するのは難しかったであろうと推察するが、その点について高沢氏は否定する。

「ファンのみなさんは、順位が見えてきて消化試合のようになるとやる気をなくすのではないか? と思うかもしれません。でも、試合が始まれば勝つことに集中するし、自分の持てる力を全部出そうと必死でした。ひとつでも順位が上がれば印象が違いますし、自分の成績が上がれば給料に跳ね返りますから」

 負けが続いて落ち込んでも、翌日にはまた試合が待っている。ロッテナインは、淡々としながらも、各自が自分の仕事をきちんとする姿勢だけは失わずに試合をこなしていった。それは「10・19」も同じこと。高沢氏も当日は特別な感情など一切なく、普通に球場入りして試合前の練習に臨んだ。

 ところが、第1試合の開始前になると少し様子が違った。ロッテのベンチ裏では、有藤監督が選手を集めて檄を飛ばしたのだ。

「近鉄と西武の優勝が今日の試合にかかっている。どちらのチームにも失礼のないよう全力でやってくれ!」

 そして、高沢氏は個別で以下のように言われた。

「首位打者を争っているけれども、この試合、ウチでもっとも打っている選手を出さないわけにはいかない。だから出すぞ!」

 高沢はこの時、パ・リーグの首位打者を僅差で争っていた。春先は不調だったが、途中からグングン打率を上げ、気がつけば松永浩美、福良淳一(ともに阪急)とバナザード(南海)との争いとなり、ひとつ頭を抜け出した状態でトップを堅守していた。

 84年に守備でフェンスに激突して右膝の膝蓋骨を粉砕骨折するなど、故障しがちでタイトルとは縁遠いと思っていたところに舞い込んできた千載一遇のチャンスである。打撃については「ストレートを投手と二塁手の間に向かって打つ」というスタイルでコツをつかんでいた頃でもあり、この年は野手の間に落ちるような幸運なヒットも多かった。

 タイトルはなんとしても取りたい。だが、自分から「休ませてください」とは言えない。とにかく、1本でも多くヒットを打って楽になりたい。近鉄の優勝がかかっている試合ということは、さして意に介さず試合に臨んだ。

第1試合の途中から観客席に変化が

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