元南海のスタンカ氏、87歳で死去 NPB通算100勝、昭和中期に燦然と輝く活躍

愛息の事故死で離日、鶴岡監督「辛くてジョーの顔が見れんのや」

 1961年の巨人との日本シリーズ第4戦でスタンカは珍しく杉浦忠を救援したが、あとアウト1つで勝利という場面で自信を持って投げた速球を「ボール」と判定され、円城寺満主審に詰め寄る騒ぎとなった。スタンカは次のボールを打たれサヨナラ負け。のちに、このシーンは「円城寺 あれがボールか 秋の空」という句になった。

 スタンカは1964年には26勝7敗でMVPに輝く。翌1965年34歳になっても衰えは見せなかったが、この年の11月23日、15歳の長男ジョーイが神戸の自宅でガスの事故によって死亡。ジーン夫人ら家族は悲しみにくれ、スタンカはあと1年残っていた契約を解除して帰国する決断をした。

 スタンカはこの年12月に日本を離れた。伊丹空港には鶴岡監督夫人顔を見せたが、鶴岡監督本人は「辛くてジョーの顔が見れんのや」と見送らなかった。南海での通算成績は94勝59敗だった。

 翌年、スタンカは日本球界に復帰するが、南海にはすでに新外国人が来ていたため大洋に入団。6勝を挙げ、通算100勝72敗で引退した。1459回を投げ887奪三振、防御率は3.03だった。

米国人投手のNPB100勝はバッキ―とスタンカだけ

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