ジャイアンツの伝説、ウィリー・マッコビー氏が死去 メイズと「MM砲」形成

ウィリー・メイズと「MM砲」、フアン・マリシャルと「ジャイアンツの3M」

 MLBの「MM砲」といえば、1961年ベーブ・ルースの60本塁打を抜く61本塁打を記録したヤンキースのロジャー・マリスと54本塁打のミッキー・マントルの2人を指すことが多いが、マッコビー、メイズの「MM砲」のほうがはるかに実績は上だ。

 またジャイアンツの大投手で、243勝して殿堂入りしたフアン・マリシャルとともに「ジャイアンツの3M」とも呼ばれた。

 193センチ89キロ、当時のMLBでは大柄な選手。長打力は抜群で、しばしば特大のホームランを打った。1966年9月16日のメッツ戦の2回裏にはジャック・フィッシャーから152mの特大弾を放つ。当時のジャイアンツの本拠地キャンドルスティック・パークの最長本塁打記録となった。

 メイズの衰えとともに、チームの大黒柱となり、1968年、69年と2年連続で本塁打、打点の2冠王。69年にはMVPに選ばれた。この年から中軸を組んだのは、バリー・ボンズの父のボビー・ボンズだ。1970年には日米野球で来日し、東京球場で行われたロッテとの第2戦で本塁打を打っている。

 1973年オフ、パドレスにマイク・コールドウェルとのトレードで移籍。このときマッコビーと抱き合わせで移籍したのがのちに阪急で活躍したバーニー・ウィリアムスだ。

 1976年8月にはアスレチックスに金銭譲渡されるが、オフにFAとなり、ジャイアンツに復帰した。1977年は、日本でMLB中継が始まった年だが、39歳にして28本塁打、86打点、打率.280を記録。奇跡の復活と言われカムバック賞を受賞した。1980年、42歳で惜しまれつつ引退。

 2588試合8197打数2211安打521本塁打1555打点、打率.270。MVP1回、本塁打王3回、打点王2回、オールスター選出6回。背番号「44」はジャイアンツの永久欠番になった。1986年、選出資格を得た1年目に81.4%の得票でMLB野球殿堂入りを果たした。

 あだ名は「Big Mac」「Stretch」。ジャイアンツでの人気は絶大で、ジャイアンツが2000年に開場した新本拠地AT&Tパークの右翼席後方の入江は「マッコビー湾」と命名された。強打者が場外ホームランを打つと、「マッコビー湾」にはカヌーでホームランボールを追いかけるファンの姿が見られる。

 王貞治、張本勲の2歳年上、デビュー年は同じ1959年。昭和の日本人選手にとって手本となった大打者の一人だった。

(広尾晃 / Koh Hiroo)

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