殿堂入りした脇村春夫元高野連会長 プロとアマ、野球界の雪解けを推進

日本高野連会長に就任直後からプロアマの障壁撤廃に尽力

 2004年1月9日、プロ野球の川島広守コミッショナーを訪問。表向きは前年12月にスタートした、日本野球機構、日本プロ野球選手会、日本高野連が主催するプロ野球現役選手によるシンポジウム「夢の向こうに」の御礼を述べるためだったが、脇村氏には1つの覚悟があった。それは「プロ野球と高校野球の雪解け」だった。

 昭和時代のプロ野球は、高校、大学、社会人野球の有望選手を多額の契約金を使って引き抜いた。これに対して、アマチュア野球は激しく反発。1961年、中日が申し合わせを破って、日本生命の柳川福三外野手を引き抜いた「柳川事件」をきっかけに、プロとアマは「断絶状態」となっていた。

 これ以降、プロ選手はアマ選手に指導することも、接触することもできず。このために、巨人の長嶋茂雄監督は、立教大でプレーしていた息子の長嶋一茂選手に、自宅でアドバイスすることさえできない、という事態に陥っていた。

 しかし、野球の国際化に伴って、プロアマは連携する必要性に迫られていた。1999年シドニー五輪アジア予選では、アマチュアから選抜された選手と、松坂大輔(西武)、古田敦也(ヤクルト)ら8人のプロ選手が1つのチームを作って参加していた。

 この時の経験もあり、プロアマの障壁を取り除くべきだと痛感していたのは、当時プロ野球選手会会長を務めていた古田敦也選手だった。古田会長は2003年3月、オープン戦で関西を訪れた際に大阪市内の日本高野連本部を訪ね、脇村会長と会食し、「プロアマの雪解け」の必要性について話し合っていた。この時、特にドラフト制度についてプロとアマが協議しながらルールを作っていく必要性があると強調。脇村会長もこれに強く同意し、プロ野球側に働きかけるべきだと考えたという。

 シンポジウム「夢の向こうに」も、古田、脇村両会長の尽力で実現したものだったが、この機会にプロ野球に和解を働きかけようという意図もあったという。一方で、プロ野球の川島コミッショナーは、2004年1月末での退任が決まっていた。この機会を逃すとチャンスはなくなると考えた脇村会長の決意は固かった。

2004年に川島コミッショナーと「ドラフト制度に関する覚書」に調印

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY