根尾、万波と並び1年夏から注目された男 東海大甲府・小野寺瑞生が進む道
一時は野球を続けるか迷うも東京農業大学に進学「野球をやっていてよかったと思えるように」
昨夏、東海大甲府で背番号1を付け甲子園を目指した小野寺瑞生選手が、このほど同校を卒業し、4月から東都大学野球連盟二部リーグの東京農業大学に進学する。川崎中央リトルシニア時代は中学生ながら投手では143キロを投げ、打者では長打力も注目された“二刀流”プレーヤーだった。高校時代は2度、県大会の決勝で敗れ、甲子園出場は夢と消えたが、大学野球という次のステージへと向かう小野寺に高校野球の3年間やこれからの野球への思いを聞いた。
約2年半、汗を流したグラウンドに別れを告げ、小野寺は高校を卒業した。そのグラウンドを横目に、思いを巡らせた。
「自分の納得のいく結果が出せなかったですね。一回でもいいので甲子園に出てみたかったです」
1年夏から背番号をもらい、山梨県大会でベンチ入り。敗れはしたが、リリーフで決勝のマウンドにも立った。1年時は投手。2年秋からは打者中心。3年春からは再び投手。昨夏の大会は背番号1を付けたが、自分の思い描く投球はできず、チームも準決勝で帝京三に敗れた。目指した100回の夏の甲子園にも出場できなかった。
輝いた時期がなかったわけではない。1年夏から出場した公式戦ではデビューを果たし、2回戦で1イニング2奪三振と力投。タイムリーも放った。2年の秋季山梨大会準決勝、駿台甲府高戦では同点の9回裏に関東大会への出場を決めるサヨナラホームランを豪快に放ったこともある。秘める能力が高いことは間違いなかった。
「投手だったら1年生の時の調子はよかったです。今思うと3年生がいる中でメンバーに入れさせてもらって、無我夢中、考える余裕がないというか、自分のプレーを一生懸命やることしか頭にはありませんでした。新チームになり、プレーに対して考える時間が増えてしまって……」
自分で悩みすぎてしまい、思うように頭と体が一致しなくなっていった。最上級生が引退してから、エースとして期待されたが、伸び悩んだ。中学時代に横浜スタジアムの上段に運ぶほどのパワーの持ち主とあって、2年秋からはチームは打者専念の方針とした。4番に座り、通算で20本近い本塁打を放った。
「もともと、投手として入部したので、思ったようなボールが投げられなかったこともあり、投手をやっていて時間は苦しい思いの方が強かったですね。野球をしていて楽しいな、と思えたのは2年秋に県大会優勝をしたことくらいだったかもしれません」