名将を高校野球につなぎ留めた息子の一言 東海大甲府・村中監督インタビュー【前編】

約束の5年…さらに3年が過ぎ、プリンスホテルから連絡が入る

 監督就任から8年が経過しようとした頃、プリンスホテルから監督のオファーが届いた。村中監督にとっては人生の分岐点だった。

「会社には迷惑をかけたので戻ろうかと思いました。家族で話もして9割9分9厘、戻るつもりでいたんですが、息子の一言から、その1厘で心が変わりました」

 小学校3年生になっていた長男に「明日からホテルマンに戻るの? 似合わないと思うよ。イメージが湧かないよ」ときっぱりと言われた。

「そう言われて、純粋に『そうだな、もう似合わないな』とか『高校野球が好きなのかな』という面が出てきまして。結果を残したかもしれないけど、もうひと花咲かせたい、と」

 息子の言葉に心を動かされた。学校側は東海大学の職員のポストを用意してくれた。当時のプリンスホテルの社長には「お前の情熱はわかった。戻りたかったらいつでも戻っていいからな」と理解してもらえた。人に恵まれた社会人生活。感謝の思いが込み上げてきた。

 まず、村中監督が行ったのは、教職免許を取ることだった。大学の3年先輩の岩井美樹氏(現国際武道大学監督)に勧められたからでもあった。その意味は後によく分かった。グラウンドだけでは選手と意思疎通できない。生徒との時間を少しでも長くすること、高校野球は人間教育の場であること……。これが指導者にとって非常に重要なことだと知った。

「2年かかって、教職免許を取りに行きました。同じ大学のクラスに教え子がいたなんてこともありましたね。授業は教室の一番前に必ず座って受けていました。ある時、授業と夏の大会の初戦が同じ日になってしまったことがありまして…困ったことがありました」

 その授業は必修科目で欠席するともう1年履修しないとならなかった。しかし、先生からは「試合に行きなさい」という驚く一言をかけられた。

「自分がいつも一番前で授業を受けていた姿勢を評価してくれていて、全然心配いらいないよ、私も応援に行きます!とまで、言ってもらえました」

 だから国語の教諭になった今でも生徒には力強く言える。「授業はちゃんと受けておいた方がいい」と。実体験ほど説得力のなるものはない。

 こうして村中監督は教師としての道も歩み出した。1998年、新1年生に素晴らしい選手たちが入ってきた。筑川利希也投手(元Honda投手)ら有望選手が集まり、全国制覇への期待が膨らんだ。しかし翌年、同時期にお世話になった東海大相模の校長が東海大甲府の校長になることとなり、一緒に異動する話が持ち上がった。

「この新入生と一緒に甲子園に―という思いがあったので、あと2年、待ってほしいなという気持ちがありました。恩師の原貢さんに相談したところ『選ばれたところに行きなさい』とおっしゃっていただきました。当時、甲府は低迷していたので、また立て直しにいこうかという感じです。10年一区切り、それでここ(東海大甲府)に来ました」

 2000年、東海大相模は村中監督からバトンを受けた門馬敬治監督がエースの筑川を中心とした投打バランスのとれたチームを作り、センバツで優勝を成し遂げた。

 その頃、村中監督は、東海大甲府再建の真っただ中だった。

(続く)

(楢崎豊 / Yutaka Narasaki)

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