人生を変えた同級生・原辰徳の言葉とは 東海大甲府・村中監督インタビュー【後編】

憧れ続けた原貢監督と縦じまのユニホーム、「将来、ここに入る」と決めた少年時代

 こうして30年、生徒と向き合ってきた監督を思い、教え子たちが中心となって監督就任30年を祝う会を1月に企画。東京・グランドプリンス高輪で盛大に行われた。元阪神の早川健一郎氏、中日の森野将彦コーチ、高橋周平内野手、巨人に進んだ原俊介氏(現東海大静岡翔洋監督)、仲澤広基氏(巨人職員)らプロに進んだ選手をはじめ、400人が集まった。

 そこには原辰徳・巨人監督の姿もあった。60歳になった元チームメートの2人はまだユニホームを着て、戦っている。

 高校1年生の1974年夏。甲子園の話題の中心は三池工(福岡)で全国制覇をした原貢監督と1年生で主軸を打つ三塁手・原辰徳氏の親子鷹で挑んだ東海大相模だった。ベスト8にまで進出し、村中監督も「小さな大投手」として勝利に大きく貢献した。

 村中監督は長崎県で生まれ、小学3年生の時に神奈川へ移住。小学校5年生の時に見た東海大相模の縦じまのユニホームに憧れた。1970年に原貢監督が率いて全国制覇。地元の優勝パレードを見て、次の日は練習を見に行き「将来、ここに入る」と心に誓った。原貢監督にサインをもらい、握手をしてもらったことは忘れない。

 そこから少年野球を始め、中学3年の神奈川県内の大会で偶然にも原辰徳氏が通う中学校と対戦することになった。村中監督が投げ合いを制した。原辰徳氏は打たれ、一塁に回った。塁上で一緒になった時「よく打つね」と声をかけられたのが2人の最初のコンタクトだった。村中監督のいた中学は県大会で勝ち進み、決勝戦では11奪三振の快投。その試合は原貢監督が観戦に来ていた。

「僕を見に来たわけではなかったらしいんですが、気持ちは入りました。その後、進路を提出するときは第1志望も、第2志望も、第3志望も、すべての欄に“東海大相模”と書きました。先生からは『何コレ?』と言われましたね。意見が通らず、違う学校を進められました。進学しても試合には出られないのだから、やめておきなさい、と」

 途方に暮れていた。諦めきれず、秋の神奈川大会で東海大相模の試合を見に行った帰り道だった。原辰徳氏との運命の再会があった。

「『一緒に相模でやろうよ! 俺、サードやるから。村中くんがピッチャーをやって、一緒に甲子園を目指そうよ』って、言ってもらえてね。その一言ですよ」

 誰に反対されても、憧れ続けた東海大相模へ行くと、強い決意をした。

30周年を祝うパーティーの挨拶では「いずれは原貢になります」

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