「まだ夢に出る」清原のアーチ KKに敗れた男、大阪工業大総監督が全日本出場で叶える夢

1985年夏大阪府大会決勝・PL学園戦で「1番・中堅」で出場、清原の本塁打に「一歩も動けず」

 1985年夏。高校3年生の栃岡総監督は東海大仰星の「1番・センター」で主将だった。大阪府大会を決勝まで勝ち上がった。相手は後に全国制覇をするPL学園。エース・桑田、4番・清原のKKコンビに立ち向かったが、歯が立たなかった。桑田は完封、清原は2本塁打。栃岡総監督はこの試合、4打席立ち無安打1四球。桑田の前に2三振だった。今では良き思い出として残り、この経験が指導者生活にも生きているという。

「(KKコンビは)ケタ違いでしたね。(桑田は)特に真っ直ぐよりもカーブが上に浮いて、落ちてくる印象。とてもじゃないけど打てると思わなかったですし、(清原の本塁打は)私はセンターを守っていましたから、当時の日生球場で打った瞬間にボールを見上げて、一歩も動けなかったです。すごいなと思いました。いまだに夢でたまに出てきますね」

「あの代のPL学園はどのメンバーもその後、活躍していたので、自分も頑張らないといけないなという思いがありました。ありがたかったです」

 栃岡総監督は、決勝戦だけでなくこの夏の大会で無安打に終わっていた。大会直前の練習試合でサイクル安打をマークするなど直近2試合で9打数9安打と絶好調だった。

「その後、何だか魂が抜けてしまったみたいというか、力が入らないというか、地に足がつかない。ふわっとした感じになったのを覚えていますね。これで終わってしまうのかな、と記憶しています。高校3年生という未熟な時ですから、打てなかったらどうしようと思って、『ああ、打てなかった……』という気持ちの繰り返しで決勝を迎えていました」

 気持ちの立て直しができないまま、最後の夏を終えた。忘れられない青春の1ページだった。

 だからこそ、主将の立ち振る舞いの大切さを伝えたい――。

「キャプテンをやっていて、変な緊張があったのだと思います。個人的にチームに貢献できなかったので、今の(大阪工業大の)主将にも打てない時、気持ちの面を整理し、チームに何か貢献させたい、してほしいと思っています。そういうところは高校時代の教訓として残っていますね」

 大阪工業大の4年生は春の大会で他の大学とは異なり、ひと足早く、引退となる。秋は就職活動を優先させるため、社会人で野球を続ける選手以外はここでいったん区切りをつける。ナインは10日に初の全国の舞台となる全日本大学野球選手権・創価大戦を迎える。

「最初は楽しんでもらいたいという思いはありましたけど、やるからには勝ちにいこう。4年生は最後になるので、その思いを大会にぶつけてほしいですね」

 ベンチに入る予定の栃岡総監督にとっても、夢にまで見た全国大会。高校3年の夏、あと一歩のところで届かなかった舞台だ。

「やっぱり、うれしいですよ。少年に戻った気持ちでワクワクしていますし、どうやってこの子らの持っている力を発揮させてあげられるか。悩みも期待もあります」

 力を発揮できずに、肩を落としてグラウンドに背を向けたあの夏から34年。学生たちの晴れ舞台は、一人の男の夢が叶う瞬間でもある。

【動画】「ケタ違いだった」PL学園桑田・清原との忘れられない夏の一試合大阪工業大・栃岡総監督インタビュー

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