【あの夏の記憶】「本当は鹿実に行きたくなかった」定岡氏の心を動かした身近で最大のライバル

鹿児島実で1974年甲子園ベスト4に進出した元巨人・定岡正二氏【写真:荒川祐史】
鹿児島実で1974年甲子園ベスト4に進出した元巨人・定岡正二氏【写真:荒川祐史】

鹿児島実3年時の1974年夏、東海大相模と延長15回の死闘を制し4強入り、同年秋ドラフト1位で巨人へ

 甘いマスクと好投で夏の甲子園を沸かせたプロ野球解説者・定岡正二氏は、2年夏に続き、1974年夏の3年夏も鹿児島実で甲子園に出場した。3年生エースとして、鹿児島勢初めてのベスト4進出に貢献し、後に巨人からドラフト1位の評価を受けた。しかし、元々は鹿実にもプロにも行く気はなかったという。身近にいた存在が最大のライバルが「心に炎を付けた」と振り返る。

 その存在は3歳差の兄で元南海内野手の智秋氏(現・柳ヶ浦監督)。小学校から一緒に野球をし、ずっとその背中を見ていた。兄の同級生とも一緒に野球をしていたため、他のメンバーとセンスが違うことも容易に分かった。雲の上の存在だった。

 だから、進学先を迷っていた。

「兄ちゃん、すげぇ~な~と思って見ていましたよ。後にプロからドラフトを受けるような選手ですから、比較されるのが嫌でした。本当は鹿実に行きたくなかった。他の鹿児島県内の学校に行きたかったんです……。でも、行ってよかったです。甲子園に出場できましたから」

 智秋氏が中学3年生の時、自宅に当時の鹿実・久保克之監督(現・鹿児島実名誉監督)がやってきた。小学校から帰ってきたところだった正二氏も名将と目が合い、挨拶をした。

「監督はたまたま、兄のスカウトで来ていました。僕は、ただの弟なのに『お前も鹿実に来いよ!』と言われまして……。向こうにしてみれば何もないでしょうが、僕にとっては印象に残る出来事でした」

「どこかで兄をライバルと思うようになってきていた」

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