【あの夏の記憶】「甲子園は人を変える」―814球を投げた三重高左腕の今 球数に宿る高校球児の思い

「責任を果たしたいって気持ちがあるのも事実」

 周囲は「鉄腕」だと言ったが、今井自身にその意識はなかった。中学時代は肘を故障して棒に振った分、三重高入学後は投げることが楽しくて打撃投手をすすんで引き受けた。1日150球超の日々が、素地をつくってくれたと思っている。3年になり、三重中京大時代に則本昂大投手(現楽天)を育てた中村好治監督から無駄のないテークバックを教わった。「張りや疲れが出なくなった」と理想に近づいた結果が、814球を生んだ。夏では早実・斎藤佑樹の948球(06年)、金足農・吉田輝星の878球(18年)らに次ぐ歴代4位の記録だ。

 それだけで評価される数字だとは思っていない。球児の故障防止の観点から、球数制限の議論が熱を帯びる時代の流れとは逆行することも分かっている。「確かに、球数制限は必要なんかなとは思います」。ただ、背番号1を担ってあのマウンドに立った時、すんなりと数字で気持ちが割り切れるのか――という思いもある。

「もし球数制限が100球だったら、僕は甲子園で1試合も投げ切ることができなかったわけで……。エースにとって、球数ってチームへの貢献度を表すものでもあると思うんです。ケガをしないことが一番ですけど、責任を果たしたいって気持ちがあるのも事実だと思います」

 今井は高校卒業後、4年後のプロ入りを目指して愛知の強豪・中部大に進学。1年春から愛知大学1部リーグで登板し、全日本大学選手権にも出場した。通算15勝を挙げたものの、登板機会が多かったことも影響したのか3年冬に神経障害で左肘を手術。最終学年はほとんど投げられず、結局社会人の強豪からも声がかからなかった。

 それでも、野球をやめる選択肢はなかった。「甲子園のあのマウンドに立った時から、野球を続けるのが宿命になった気がして」。大学を卒業した今春、軟式野球全国大会で優勝経験もある地元・愛知の和合病院を新天地に選んだ。「再来年の21年に三重で国体があるので、そこまでは続けたいと思っています」。甲子園準V投手に育ててくれた地で、新たな節目を迎えたい。

(小西亮 / Ryo Konishi)

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