一学年上は“最強世代” 大阪桐蔭前主将が背負った重圧と手にした財産

秋から冬、そして春、夏…取材のたびに「上の学年は…」と言われ続けた日々

 しかし、選抜出場を果たすことはできず、長い冬を過ごした。一冬越えて最後の夏の大会を迎えても、周囲の見る目は変わらなかった。

「秋から始まって夏まで、取材があると“上の学年は……”と言われたんですけど、そこはもう切っても切れない。先輩たちのお陰で春夏連覇という最高の思いをさせてもらったし、勝てないのはそれが自分たちの力だと思うので。そこは自分たちでうまく付き合っていかないといけなかったです」

 比較対象は常に先輩たち。もちろん、それと切り離しても日本一を目標にやってきたが、空回りしてしまっていた。ただ、戦うのは先輩たちではなく目の前の試合である。「自分たちの学年は自分たちの学年なんや」。最後の夏はようやく自分たちと向き合いながら臨むことができた。準決勝で金光大阪に敗れ、甲子園には出場することができなかったが、過去は過去。未来に向かって「大阪桐蔭での経験を生かしていきたい」と生き生きした目で話す。

「なかなか春夏連覇も経験できないですし、春夏連覇の次の代のキャプテンも経験できないと思う。高校で負けた分、その先で負けたくないなと強く思いました」

 主将として西谷監督と一番時間を密に過ごしてきた中野には忘れられない言葉がある。

“野球はロボットがするのではなく、人間がする”

「ロボットは心がないんですけど、人間には心があるんで、その心をどれだけ磨くことができるか。技術も大事だけれど最終的には心をどれだけ磨いているかで勝敗が決まると言われていました」

 まずは人間力を磨く。練習後の片づけはもちろん、靴を揃える、挨拶、当たり前のことをきちんとできるようにしよう。野球選手である前に一人の高校生、人間として成熟しようという気持ちで3年間を過ごしてきた。それは日本一の称号にも代えがたい財産ではないだろうか。

 8月6日。「TOIN」のユニホームに身を包んだ中野は甲子園球場にいた。最後の大仕事を果たすためだ。「胸を張って堂々とやってこい」。西谷監督がそう言って送り出してくれ、深紅の大優勝旗を手に49代表校の先頭をたった一人で歩いた。「後ろに仲間が歩いているのを想像すると悔しい」と振り返ったが、表情はどこか肩の荷が下りたようなそんな風にも見えた。「嬉しいこと、悔しいことすべてが詰まった」大阪桐蔭のユニホーム姿はこの日が最後。「自分の宝物です」。そう言い残し、聖地を後にした。

 兵庫県の淡路島から海を渡り大阪桐蔭へやってきた中野は、引退してからフェリーを使って2時間かけて通学している。それでも毎日午後9時ごろまでグラウンドに残り後輩たちのサポートをしているのだ。

「後輩たちには絶対に甲子園に行ってほしい」。自分たちが味わった苦い経験をしてほしくないからこそ、自然と後輩たちのために体が動くという。中野の野球人生ももちろんこれで終わりではない。「大学では日本一になって、将来は野球でご飯を食べていけるようになりたいです」。
 
 中野波来。淡路島と明石市を結ぶ、たこフェリーの船長だった父・達也さんと、母・容子さんが「良い波が来ますように」と名付けてくれた。最強の先輩たちと良い波に乗ったこともあれば、荒波に揉まれることもあった3年間。逞しく育った青年は再び日本一の景色をみるための航海に出る。

【動画】“高校野球史上最強”チームを引き継ぎ 重圧と戦った1年 大阪桐蔭元主将

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