ミスタードラゴンズ・高木守道を振り返る 日本一の二塁手が魅せたバックトス

プロ初打席で初本塁打をマーク、守備でもダイビングキャッチのデビュー戦

 高卒1年目だったが、高木の俊敏さは際立っていた。コーチの牧野茂はノックでの反応の良さに驚き、杉下茂監督に1軍での起用を進言した。5月7日、中日球場での大洋戦に代走で出場し二塁を守った高木に、9回裏にプロ入り初打席が回ってくる。ここで高木は大洋3番手・宮本和佳から左翼へ2ランホームラン。プロ初打席で初本塁打という派手なデビューだった。また9回表の守備では、大洋近藤和彦の一、二塁間に抜けそうなゴロをダイビングキャッチしてアウトにするファインプレーも見せた。対戦相手の大洋、三原脩監督は「今後20年間、中日のセカンドは安泰でしょう」と語った。

 しかし中日には、当時、セ・リーグ最高の二塁手と言われた井上登がいた。井上はこの年まで5年連続で二塁手のベストナイン。ただ翌1961年に濃人貴実(渉)が中日監督に就任すると、井上登は冷遇されるようになる。濃人監督は井上を一塁にコンバートし、シーズン後半から高木をスタメン二塁手に起用する。このオフ、濃人監督は井上登を南海に放出、南海からはカールトン半田、長谷川繁雄、寺田陽介と3人の野手が移籍した。

 1962年、高木は二塁のポジションを井上に代わってカールトン半田と争うこととなった。しかし31歳の半田は打率.231と低迷。この時期打撃でも進境を見せた高木は.280を打って、シーズン後半には高木がスタメン二塁手として出場するようになった。カールトン半田はこの年限りで引退する。

 来る1963年はいよいよ高木守道が正二塁手に定着するかと思われたが、新任の杉浦清監督は1961年に入団した柳川福三を一度は正二塁手に据えることにした。この柳川はある意味で野球史に残る選手だ。中日は、当時のプロアマ協定を破って日本生命から柳川を強引に引き抜いた。アマチュア側は態度を硬化させ、以後プロ野球との一切の交流を遮断。この「柳川事件」がきっかけとなって、プロアマは長い冷戦時代に入ったのだ。

二塁手としての出場試合数(2179試合)、補殺数(5866)、刺殺数(5327)、併殺数(1373)ですべて1位

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