阪神スアレスが掴んだジャパニーズドリーム メキシコで語り継がれる右腕の物語
ケガ人発生でスアレスにチャンス、中継ぎスタートから結果を残し抑えに
スアレスがサルティージョでプロデビューを飾ったのは、開幕から約2週間後だった。他の外国人選手がケガをし、出場選手登録を外れたことで、リザーブリストに名前のあったスアレスにチャンスが訪れた。中継ぎからスタートし、順調に相手打線を抑えていくと、セットアッパーから抑えに昇格。元メジャー選手らを抱える強豪チームの打線を次々と封じ込めていったことで、最終的に日本行きのチャンスが開けたのだ。
だが、メキシコでプロ契約をつかむのは簡単ではなかった。出身地のベネズエラで子供の頃に野球を始めたスアレスだったが、10代の頃、ベネズエラにアカデミーを置くメジャー球団とは契約することはできなかった。2歳年上で、現在ヤクルトでプレーする兄のアルベルトは16歳の時にレイズと契約。だが、弟のスアレスは当時、今ほど直球が速くなく、目立つほどの存在ではなかったのだという。兄に続くことができなかったスアレスは、20歳で一旦野球を辞め、母国で工事現場の作業員やタクシーの運転手として働いていた。だが、夢を諦めきれず、2年後に再び野球を再開すると、23歳になった14年にメキシコに渡航。週末にだけ試合が行われるアマチュアリーグでわずか数千円の日当をもらい、何とか生計を立てながら、メキシコでプロ入りの道を探った。
しかし、23歳になるまでプロ経験が一度もない選手を取ろうとする球団はなかなか現れなかった。メキシカンリーグ数チームのトライアウトを受けたが、結果はどこも不合格。球は速くても、プロでの実績が全くないことで、各チームとも二の足を踏んでいた。中南米の中でも、特にドミニカ共和国やベネズエラには、コントロールはないが、球だけはめっぽう速いという投手はゴロゴロいる。過去の実績がないため、スアレスもそのタイプの投手の1人ではないかと思われてしまっていたのだ。
そんな中、唯一チャンスを与えてくれたのが、弱小で資金力のないサルティージョだった。偶然にも、14年冬にプレーしていたアマチュアチームのオーナーが、当時のサルティージョのオーナーでもあった。そしてスアレスに、練習生としてチームでプレーすることを認めてくれたのだ。周囲に「プロになるまでは本当に金がなかった」と、打ち明けていたスアレス。開幕前はあくまで、他の外国人選手に何かあった時の“保険”としての立ち位置だったが、開幕時にリザーブとしてチームに残ると、巡ってきたチャンスで結果を残し、その道も開けていった。