「戦後初の3冠王」は1965年の野村克也 前年は本塁打&打点の2冠も“減俸”が刺激に

タイトルを争ったスペンサー&高木喬が相次いで離脱、初の首位打者を手にして3冠王に

 しかしこの時期からパでは阪急のスペンサーが本塁打を量産し始める。スペンサーは7月に一時は野村に7本差をつけて本塁打でトップに立ったが、故障がちで欠場が増えていた。しかし9月に入って盛り返して10月4日の時点で40本の野村に対して38本と2本差に迫っていた。

 打率でもスペンサーは.311で2位。さらに近鉄の高木喬が9月に入って急速に打率を上げていた。ここへきて、野村の三冠王には暗雲が立ち込めてきた。

 しかし全く予想外の展開で、野村克也に三冠王が転がり込むこととなった。まず10月2日、近鉄の高木は激しい腹痛に見舞われて病院に搬送され、急性盲腸炎と診断され入院することになった。

 そして10月5日の午後3時過ぎ、バイクに乗って西宮市の自宅から球場に向かったスペンサーは、自宅を出てすぐの三差路で16歳の店員が運転する軽四輪と出合い頭に衝突。神戸市内の病院に搬送され、右足骨折で全治2か月と診断され、入院したのだ。2人とも今季絶望だった。

「戦後初の三冠王当確!」。10月5日、報道陣は大阪球場に詰めかけた。

 試合前の野村は「こんなに次々と競争相手が倒れてしまい、何か気持ちが悪いような気がする」と複雑な表情で語った。この日、南海は近鉄に負けたが、試合後にラジオのアナウンサーが野村にマイクを向けた。しかし野村は「人が不幸にあったことを聞いて、私が喜べますか」とインタビューを拒否してロッカールームに引き上げた。

 最終的に野村は打率.320、本塁打42本、110打点で戦後初の三冠王に輝く。セの王貞治はシーズン終盤に首位打者を中日の江藤慎一に奪われ、三冠王はならなかった。

 野村の首位打者は後にも先にもこの1度だけ。わずかなチャンスを生かして三冠王を獲得した。今なら「持ってる」と言われるところだろう。南海はリーグ優勝。野村克也はもちろんMVPにも輝いた。

 捕手の首位打者も史上初。以後、古田敦也、阿部慎之助、そして昨年の森友哉が続くことになる。

 シーズン最終日、野村は報道陣の前で万歳をして三冠王を喜んだ。鶴岡一人監督は報道陣に静かに語った。「おめでとう、ブルームが入ったことが野村をよほど刺激したようだ。ブルームと競り合って前半戦に3割を記録したことがいい結果につながった」。

 すでに押しも押されもせぬパ・リーグ最強打者になっていた野村克也に、鶴岡一人は刺激を与えてさらなる「チャレンジャーの火」を燃やさせたのだ。

(広尾晃 / Koh Hiroo)

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