野村楽天でのコーチ経験は「選手の時より濃密…」 燕池山2軍監督が語る名将【後編】
本拠地ナイター時は午前9時に球場入りし、相手投手対策に着手していた
2月11日に虚血性心不全のため84歳で亡くなった野村克也氏。「生涯一捕手」として現役27年、選手兼任を含めてNPBの監督を24年、アマ野球シダックスの監督を3年務めるなど日本球界にはかり知れない功績を残した。今季からヤクルトの2軍を率いる池山隆寛氏はヤクルトの選手として9年間、そして楽天の1軍打撃コーチとして4年間、実に計13年間も野村氏に仕えた。より濃密だったのはコーチだった4年間だという。
「明らかにコーチの時の方が大変でした。野村さんは何よりもプロセス、準備を重要視する。あらゆる備えをして試合に入っていました。とにかく準備をしましたね」
例えば本拠地で行われるナイターの1日はこんな感じだったという。午前9時には球場入り。パソコンの電源を入れてその日の相手先発投手らの情報収集、分析に取り掛かる。これが終われば選手の早出練習に付き合い、チームの打撃練習を見て試合に入る。そして試合が終わればミーティングに。打てずに負けた日に、槍玉にあがるのが打撃コーチだった。打順を決めるのも池山氏の仕事だった。
「野村さんは野球の8-9割はバッテリーという考え。どのように負けない野球をするかというところで、一流投手は打てなくてもある程度致し方ないというスタンスなのですが、ちょっと力の劣る投手を打てないと結構責められる……。でも、ここでどう準備をして、選手にどんな指示を出したかなどを監督に説明して納得してもらえればそれ以上責められることはない。プロセス、準備を本当に大事にされていて、そこがぶれることはなかった」
そんな日々が4年間続いた。球場一番乗りを山田勝彦バッテリーコーチと“争い”、相手の情報収集&分析に取り掛かる。ある時は盛岡市でのナイターを終えてバスで仙台移動後にミーティングに。終わったのは午前1時半になったことがあったという。しかし、そんな努力が実を結んで、チームの順位は6→4→5位と進んで2009年には2位に躍進した。
「苦しかったけど、やり切れたと思う。野村さんに何を聞かれても答えられるように日々準備していたし、野村さんから『それは間違いだ』と指摘されたことは1度もなかった。4年目の2位は自分も自信になりましたね」
野村イズムが骨の髄までしみ込んだ池山氏の復帰はヤクルトファンにとっても心強いだろう。「もう一度強いヤクルトになってもらいたい」。池山氏はその一念を胸に、2軍で若燕を鍛え上げる。
(片倉尚文 / Naofumi Katakura)