【私が野球を好きになった日16】他界した恩師を追って…北海道移転決定後初のハム戦士の今
「日々の生活がプレーに出るぞ」と言われ続け、大切なことを教わった
入学すると、小、中学校時代と違って、毎日練習することが新鮮だった。「“野球漬け”は初めて。毎日、野球ができて幸せでしたし、充実していました。上手くなっている実感もありました」と一気に野球が好きになった。
厳しさと愛情にあふれる指導を受け、高校3年間で心身ともに成長した。「大きかったのは寮生活です。『日々の生活がプレーに出るぞ』と言われ続けました。野球をすることの意味、一生懸命やることの大切さ、本当にカッコいいというのはどういうことなのか。本当にいろいろなことを教えていただきました」と語る池田さん。今でも恩師と同じように、洗面所を出る時にはきれいに水滴を拭き取り、風呂を出る時には全ての桶をきれいに洗って並べる。
主将になって迎えた2年秋の秋季全道大会で8強入り。翌02年春のセンバツに21世紀枠で初出場し、三木(兵庫)を破って初勝利を挙げた。その長打力が、04年から北海道に移転する日本ハムの目に留まり、02年ドラフト7巡目で日本ハムに入団した。「佐藤先生に出会っていなかったら、そこまで行けなかったと思います」と池田さんは恩師に感謝する。
05年シーズン限りで現役引退した後は、球団のアカデミーコーチとして活躍した。18年春に球団がパートナー協定を結んでいた足寄町の教育委員会に任期付職員として採用され、町内で野球の普及や育成に携わった後、今春、足寄の監督に就任した。打診を受けた際に頭をよぎったのは、昨年8月に79歳で亡くなった佐藤監督のこと。「タイミング的にも感じるものがありました」と快諾した。
4月9日、初練習時のミーティングでは「野球を始めた頃のワクワク、キラキラした気持ちを持ち続けてやろう」と選手たちに呼びかけた。その気持ちは、池田さん自身が野球を好きになった高校時代に抱いたもの。目指すのは恩師と同じ攻撃的な野球だ。自身が02年センバツ出場時に経験した町の熱狂ぶりを人口6600人の足寄町でも再現したいと意気込んでいる。